ヨーロッパの言語と手振り

 今日のブルガコワ教授の講義は手振り。出だしは、チャップリンの『独裁者』。例のトーキーなのに意味不明の言葉で演説をぶちかますシーン。こういうのを見ると、やはりチャップリンはすごいなと思う。でたらめをやるために、数分間を計算しつくしている。水を飲んだかと思ったらズボンに流し込んだり、横をむいて吠えたと思ったらマイクがそりかえったり、左の耳に入れた水が口から噴き出したり。

 それはそうと手振りだ。ヒットラーやレーニンの演説を見ると、これまたすごい。文化人やまったくのどしろうとなど、会話における手振りだけをドキュメンタリーから取り出してみると、その意味がよくわかる。やはりどしろうとはダメだ。手を上下に動かしているだけで会話とリンクしていない。いかにもたどたどしい。それに比して、プロの演説家はサイレントですら話が見える。さすがだ。

 英米語はともかく、ドイツ語、フランス語は、手振りなしでは成り立たない。こっちのレトリックの本を読むと、聴衆は手振りを見て、その言葉の真意を読み取る、とどれも書いてある。つまり、いくら言葉の上できれいごとを言っていても、それに手振りが呼応していないと、それは言葉の上だけのこと、本音ではない、と理解する。つまり、英米語と違って、ドイツやフランスでは、日本と同様、建前と本音の使い分けがあり、それが手振りで区別されている、というわけだ。

 いかに文法的に正しくても、正しい手振りを伴って言わない限り、こっちの人は聞き入れない。まあ、そう言ってるだけの建前として受け取るから。逆に言うと、こっちの人の会話の大半が、文法的にはぶっ壊れた副詞だけによるものであっても、正しい手振りが伴っていれば、それできちんと通じている。

 ただし、ブルガコワ教授によれば、スターリンゴルバチョフは、英米スタイルで、手振りを用いていない。言っているのは建前の公式発表のみで、本音は隠している、と思わせたことが、かえって期待を集める結果になったようだ。