日本画と洋画の隙間

 どういうわけか、日本は、学問まで縦割りにしたがる。それも、戦後は、一般教養が欠けているから、みな独善的で、わけがわからん。

 美術史もそうだ。日本美術史、とかいうと、江戸時代で浮世絵が終わって、明治は洋画の話になる。担当教員も交代する。また、演劇史とジャーナリズム史、漫画史などがばらばらにかってなことをやっている。

 が、実際はそうではない。幕末から明治にかけて、芸術文化はごたまぜに突き進んできた。そして、この分類不能のルネサンス的な総合芸術家たちが、これまで文化史から抜け落ちたままになってきた。ところが、最近、新発見であるかのように、手のひらをかえしたように個別に採り上げられれ、もてはやされる。これも間違いだ。彼らは、当時の人気作家であり、きちんと系脈を持っている。

 最初は、歌川国貞(1786-1865)。初代豊国の弟子。豊国の養子を押しのけて、自分も二代目を襲名した。一般に三代目と言うが、やはり二代目と呼ぶにふさわしい。彼はケレン味たっぷりの芝居絵を多く描いた。写楽などより色もポップだ。この『助六』は1850年ころ。まだ江戸時代で歌舞伎が人気だったころ。

 次が歌川国芳(1898-1861)。国貞の弟弟子で、北斎や広重の同時代人。しかし、伝統的な初代豊国、シックな北斎や広重とは、図柄がまったく違う。色遣いも大胆だ。だいいち、砲弾がぶちあたった一瞬の輝光を、白ヌキで表現する、などという劇的描写法は、世界的に見てもものすごい新しい。この絵は、1848年。

 河鍋暁斎(1831-89)は、国芳の弟子。まさに幕末の混乱のさなか。伝統的な日本画や、新時代の世相画を描く一方、ボッシュか、デュラーか、と思うような、東洋的宗教色をふくんだ作品も残した。

 月岡芳年(1839-92)も、国芳に入門。猟奇的な事件画を得意としたが、その一方、江戸時代にはありえなかった日本ナショナリズムへの関心が強まっている。

 そして、山本芳翠(1850-1906)。油彩だったので洋画家ということになっているが、テーマは芳年と同じ、日本ナショナリズム。こういうテーマ性のある絵は、浮世絵以来の伝統に則ったものであり、大衆の人気を博したが、アカデミックな画壇は彼を無視した。

 江戸時代の浮世絵が外国人の評価によって日本の古典して注目される一方、その末裔のこの種の絵画は、あくまで通俗的なものと見なされ、美術としては扱われることはなかった。しかし、江戸時代同様、この系譜から多くの挿絵画家たちが生まれてくることになる。もっとも、紙芝居や漫画としては、かなり稚拙な水準にまで後退を強いられるが。