映画史の隙間

 今日のグロープ教授の講義は、映画史の隙間。イタリア映画や中国台湾映画、その他だ。痛い。この辺は、あまり知らない。というか、3時間以上の、やたら長くて、何も起こらないのが多いので、かったるいから見ていないものもある。

 当然、ベルイマンから始まり、次にはアンゲロプロスは出てくる。『アレキサンドロス大王』1980。これは、いちおうむかし見た。アレキサンドロス大王、といっても、あの英雄の話ではなく、盗賊の話。だれかがあっちから来て、こっちへ行く。そのバカみたいな長回し。つまらなくはないが、きびしい。途中で、こんな田舎の村の話、どうでもいいや、という気になる。

 アントニオーニ。講義でも『ブローアップ』1966が話題になる。なんで、これ、邦題が『欲望』なんだろ。写真の引き伸ばし、っていう意味じゃないの。ぜんぜん欲望っぽくないし。これは、まあ、おもしろい。そんなに長くなかったし。死体の写真があるのに、いくら訪ね探しても、事件が出てこない。どんどんわけのわからんエピソードで迷宮化する。で、最後まで答えがない。まあ、壁のないところに壁があるようにふるまうパントマイムで象徴されていたから、言いたいことはわかったけどさ。ヒッチコックのパロディかと思っていたけど。

 中国台湾もなあ。『覇王別姫』1993とか、『非情城市』1989とか、むかし見たけど、趣味じゃないなぁ。ごちゃごちゃと背景の歴史がややこして、どのみちろくな時代じゃない。あんな国には、住みたくないな、と思ったくらいか。講義には出てこなかったけど、岑范の『亜Q』1981はおもしろかった。きちんと起承転結がある話だし。

 なんにしても、こういう映画史から外れた文芸的名作って、意外に、パルムドールとか、けっこう賞は取っている。でも、しょせん一発ものの映画史の隙間なんだよね。つまり、歴史的に、次の作り手が触発されるところがない。たとえ大作でも、というかあまりにイレギュラーな大作だから、その監督独自の作り方で、それでおしまい。だから、映画史から外れている。ガンスの『ナポレオン』1927なども、このたぐいだ。車で言えば、マセラッティとかランボルギーニみたいなものか。こんなの、使いものにならない。

 そもそも、ミドリムシの世代交代くらい、自分は、こういう文芸大作に関心がない。映画館まで行って、めんどうな話に長々と関わりたくないもの。車は、パッケージングに優れた、取り回しのよい量産車がいい。映画も同じ。だけど、こういうのが好きな連中って、どうして世間の人々の通俗的な娯楽趣味に、えらく批判的でうるさいのだろう。映画なんだから、ひとりで暗い部屋で黙って見てればいいのにさ。