闇の奥

 キーファ博士は、きょうはコッポラ、それも『地獄の黙示録』だ。もともとキーファー博士は、コッポラの『ゴットファーザー』の研究から、この、映画における現代性、というテーマに突っ込んできた。

 さきに、冒険映画の講義で『アギーレ』が出てきた際に、博士とはコンラッドの『闇の奥』のことで議論をしていたせいか、途中で、そこへ話が展開する。こっちを意識して話しているようで、気恥ずかしい。

 博士は、どちらかというとハイデッガー的、サルトル的な無神論的、社会論的な実存主義との関係で、この問題をとらえているようだったが、私は、冒険小説史を『ハックルベリー・フィン』までさかのぼって、キルケゴール的、ニーチェ的な有神論的な実存主義、社会からの孤立をもいとわない単独者としての信仰の問題を提起した。

 当然、簡単に結論が出るような話ではない。が、『地獄の黙示録』は、長いがおもしろい。カーツ大佐とキルゴア中佐と、いったいなにが違うのか。どのみち秩序もなにもないところで、やっていることは同じなのに、かたや反逆者とされ、かたや英雄とされ、組織の外と中にわけられ、そのくせ、外はあってはならないものとされて組織に抹殺される。もちろんこの構図は、『ゴットファーザー』にも共通する。そして、ここに、キルケゴールと、ハイデッガーの、その本人の生き方の違いも見える気がするのだが、どうなのだろう。

 『地獄の黙示録』は、『闇の奥』が原作であることは知られているが、カーツが病死するのと、殺されるのとでは、まったくわけが違う。むしろ、キーファ博士が『タクシードライバー』にカーツ大佐の類型を見たのは、秀逸な着目だと思う。トラヴィスは、英雄に祭り上げられることで、ある意味で殺される。彼は、孤独に向かい合う神の鏡を失う。博士が最初の講義で挙げたジャン・ヴァルジャンはどうなのだろうか。神父の贖いで救われたのか、殺されたのか。