ニュー・ジャーマン・シネマ

 今日のグロープ教授の話。だが、先生は、ニュー・ジャーマン・シネマ、という言い方から問題にする。当時の呼び方では、あくまで、ユンク・ドイチェ・フィルム、であって、「パパの映画は死んだ」というコピーとともに、若者たちが自分たちの時代の映画を作ったことに意義がある、と言う。先生の論点は、フランスのヌヴェルヴァーグやイタリアのネオリアリスモ、イギリスのフリーシネマとの同時性とともに、その明確な方向性の相違であって、たしかに重要な問題だと思う。

 実際、これらは60年代前後の同時的な映画の改革運動だったが、その前提も、その後の動向も異なっている。だから、ただ同時性でくくって済ますのではなく、その内実の差異を明確にすることなしには、なんであったか、さえも、わからない。

 とはいえ、個人的には、なんにせよ、この一派は苦手。どれもあまり共感できず、暗くて長い。それこそ文化論的には、むしろ中産階級のビーダーマイヤー文化を敗戦色に染めた感じ。結局、ドイツは、戦前も、戦後も、この半端な中産階級問題を解決しそこねたのだと思う。日本も同じだ。日本は朝鮮戦争だのベトナム戦争だのによる高度経済成長によって、敗戦状態が長引いたドイツよりは脳天気だが、しょせん中産階級向けの成り上がりの社長シリーズに、無責任シリーズだもの。下層に目を向けたネオリアリスモやフリーシネマとは、あきらかに方向性が違うし、深みにも欠ける。