物語学の現在

 大学の講義概要で「物語学」と書いてあるのを見て、おもしろそうだと思って受講すると、かなり失望する場合が多いだろう。内包された作者がどうのこうの、視点の焦点のフィルターがどうのこうの、そのうえ、例に出てくる本や映画なんか、読んだこともないような構成の変チクリンなものばかりだ。なんでこんなことになっているのか。

 じつは、「物語学」という看板の多くが偽りだ。原語は「ナラトロジー」つまり、「語り論」で、分野的に言うと修辞学の一種だ。私のように、物語そのものの内的な構造分析と創出技法の研究をやっている側からすると、つまり、本物の「物語学」をやっている側からすると、「修辞学」の連中が、この訳語を僭称するのには、大変、迷惑している。(もちろん、後述するように、繋がっているところが無いではないのだが。)

 ナラトロジーの根っこは、2つの面がある。まず理論的に言えば、ソシュールの構造言語学が分析の端緒を開き、これがチョムスキー生成文法と、聞きかじりのオースティンの言語行為論によって、文学研究に応用され、プロップやトマシェフスキーのロシアフォルマリズムが合流し、メッツやグレマスの記号構造主義(本来の論理実証主義記号論理学とは似ても似つかない疑似科学だと思うが)で映画論にまで進出、ここに、ドイツの解釈学のフランス風亜流をなめたフーコーだバルトだエーコだまで参戦して、いまやアメリカにも飛火し、ジュネット、チャップマン、ブラニガンがぐちゃぐちゃ言っている分野だ。で、話の焦点は、昨今、もっぱら「語り手」の存在性(物語の視点)にある。

 しかし、もう一つの面を言うと、生々しい。大学における過剰な語学系教員の問題だ。毎年、英語でも、フランス語でも、ロシア語でも、ABCを教えているだけなのだが、一応は大学の教員だ、ということで、もっともらしい研究をしなければならない。(体育系は、10人以上のオーサーの連名で、重心分析だの、扁平足だのの論文を作るのが大好きなように。)国文も、日本語を習いたい留学生相手が主になってしまった。ドイツ語は哲学に手を出す、というか、哲学出身がやむなくドイツ語を教えている場合が多いからよいが、他の言語は、このために、まずはシェイクスピアモリエール、ドフトエフスキー、源氏物語あたりにしがみついて、80年代は、コンピューターを使った語彙分析をさんざんやった。ところが、これもすぐにネタが尽きてしまった。ここで、みんなナラトロジーに流れ込んだ。だから、小説でも映画でも、変なローカル作品が大好きで、大衆文学やハリウッドものを嫌っている。これに、やはり新しいものが打ち出せなくなった言語学や美学、社会学まで便乗した。そのうえ、マンガ学の連中まで出てきた。それで、昨今、話題の分野となっている。(そのわりに、他分野に関して勉強不足で、自己分野中心主義で、自信過剰の語りたがりが多い。そのうえ、ロシアフォルマリズムのせいかどうか知らないが、なぜかこの分野は、左翼っぽい教員が多いのも不思議なものだ。)

 自分自身の見解を述べれば、こと映像に関しては、重層的な「語り手」なんていう余地いない。見ての通りの画面の作り手だけだ、と思う。だから、ナラトロジーの議論には加わるつもりはない。もちろん複数の作り手たちの間での大人の事情はあるが、まともな物語を創ることに関して目的と規則が合意されている以上、修辞学ではなく、経営学のパワーバランスの問題だと思う。また、同じ画面を観客がどう理解するかは、哲学ないし美学の認識論の分野で、それを技法として生かす修辞学はその後の話だ。

 一方、本物(常識的にふつうのひとが考える)の「物語学」も、きちんとある。これは、脚本法を中心に、作り手の技法の側の理論から立ち上がってきた。宗教学や社会学の一部(たとえば都市伝説論など)も、こっちに与している。もちろん、シンプルな物語(神話や童話)がどういう構造で組み上がっているか、複雑化するか、などは、プロップその他にも大いに参考になるところはあるのだが、問題となるのは、既存の物語の分析などではなく、なにを読者ないし観客がおもしろいと思うのか、それはなぜか、である。しかし、ナラトロジーでは、テキスト重視で、言語行為としての観客が不在だ。だから、こっちの側の本物の物語学の方は、ナラトロジーなんぞ関係なく、ヒックスやマッキーなど、むしろ実際の脚本家たちが経験則から考えるところが大きい。だいいち、アリストテレスの『詩学』を挙げるなら、こっちが本家に決まっている。

 とにかく半端なナラトロジーの連中には、えらい迷惑している。まぎらわしい「物語学」などという偽りの訳語はやめてほしい。日本では、哲学ではなく哲学者学だし、物語学ではなく物語語り学だろう。名が正しくなければ、中味が正しいわけがないだろう。