本郷の鬱屈と成瀬治先生

 今度は本郷の思い出だ。成城学園の関係もあって、そのうえ家も近かったので、ドイツ史の成瀬治先生には、とてもお世話になった。このころ、先生は、ナポレオン戦争前後のドイツ小国の動きと国民主義の発生を追っていて、話はえらく細かいところに入り込んでいた。

 成瀬先生は、ルター派で、毎週、きちんと教会に通われ、オルガンを弾かれた。地道な研究の中に大局を見ることを重んじられた。このころ史学科は充実していた。湯気立つ先生もいらっしゃって、その歴史哲学の講義も取ったが、哲学でディルタイをやっている学生の感想からすれば、ちょっと基本が粗いなぁ、と思った。学生は、面と向かって言わないが、それなりにいろいろ考えているものだ。それにしても、あれこれ言えるくらい、選り取り見取りで、良い先生方が多かった。

 しかし、先生方からすれば、当時、本郷の文学部は、良い状況ではなかっただろう。世間の雑学を偉そうにしただけのような考現学風の社会学系が新聞研を含めて大声で膨れあがり、静かな研究に徹する哲学系や文学系を圧迫しており、学部長の問題をもあって、対立を深めていた。

 成瀬先生は、その悪い時期に北大から本郷に来た。今道先生や渡辺先生のように、ガンガンモノを言って行く教授もいないではなかったし、また、社会学系でも重厚な理論派の先生は、このカルチャー傾向に意義を唱えたが、大半は、むしろ黙って引いてしまった。当時、私は理解していなかったが、この対立の遠因として、70年前後の左翼全学連による教授の吊し上げの問題がまだ尾を引いていたようだ。安田講堂も、まだあちこちが破壊されたままで封鎖され、壁にも火炎瓶の煤の後が残ったままになっていた。あの手の連中とそれを裏で扇動した一部の教員や元院生に対するまともな先生方の嫌悪感は沈黙のまま続いていた。(言うまでもないが、当時の北大も、かつて荒れた大学のひとつだ。)

 成瀬先生は、そういう学内問題にはあまり関わろうとしなかったようだ。一方、学生の指導は丁寧だった。そればかりか、私のような院生や学部学生を自宅に招いて、楽しく研究を語った。だが、やがてワインの量が増えた。退官後、成城大学に移られたが、体調は芳しくなかったようだ。退官後、するっとうまくどこぞの学長になった湯気立つ先生のように、要領の良い身のこなしのできる先生ではなかっただけに、内面に負担が大きかったのだろう。

 この積年の対立を払拭するためであるかのように、その後、東大本郷には、東大出身ではない先生が多く採用された。大学院も、おそらく意図的に他大学出身者(いわゆる学歴ロンダ)だらけになった。まともな先生方は、新潟大学放送大学その他へ移って、ようやく落ち着いて、良い体系的な著書をまとめられた。しかし、東大にとっては、あの安保時代だけでなく、その後の20年も、失われた時代となった。以来、日本中の大学で、新書雑学のような科目が並ぶようになり、大学の存在意義そのものがガタガタになってしまった。