本の整理

 ドイツに行くというわけで、数ヶ月来、毎週末、部屋の片づけをしている。なぜ数ヶ月もかかるか、というと、広い家に住んでいるからではない。問題は、本だ。まあ、この商売の人間はみなそうだろうが、とにかく家も研究室も本だらけだ。学生時代からの本に加えて、昨今は、研究費のほとんどすべて数十万円分が本になる。紀伊国屋のお得意さんだ。だから、プロフェッショナルカードだ。

 本は、なにしろ重い。そのうえ積むと崩れる。だから、アイリスのブックストッカーが大小、千近くある。これに分類し、本棚に入れてある。ところが、重さに耐えきれず、本棚がたわむ。汗牛充棟なんて言葉があるが、牛が汗し、棟に達する前に、床が抜け、こっちが圧死しそうだ。

 タチが悪いのが、昔の生協のブックカバーだ。色が濃くて、背表紙になんて書いてあるのかわからん。その後、カバーは裏返して、自分でかけなおすようにしたのだが、古いものは、開いて見ないと、なんだかわからん。だが、これがいけない。前に読んだもの、年来、読まずにほっておいたもの、あれやこれや読み出してしまう。で、数ヶ月かかっても終わらない。それでも、まあ、やっと単行本が始末がついて、これから文庫本と新書だ。これがまた半端な量ではない。気が遠くなる。

 思うに、本屋は大変だろう。昨今、大量の本が出版され、返品される。ワープロのせいだろうか、とにかくものすごい量だ。昔は、十年の研究をまとめあげる、とか、三年かけて推敲する、とかだったのだろうが、雑誌の連載の書き散らしでもなんても、みんな本になる。そんなのでも、出れば気になる。が、買って読んで後悔する。とはいえ、捨てられもしない。他の先生のように、図書館で借りるだけにしておけばいいのだが、本はいろいろメモを書き込みをしながら、付箋だらけにして読む方だ。図書館の本に、そんなことはしてはなるまい。

 しかし、本屋や図書館もいろいろだ。かつて八重洲ブックセンターは偉かった。レジで担当者に聞けば、棚を見に行かなくても、在庫を即答した。もちろんパソコン端末など使わずに、だ。担当の書棚の本のことなら、ほんとうによく知っていた。一方、どことは言わないが、おまえ、ほんとうに本屋の人間か、と思うような、わけのわからない従業員ばかりいる大きな書店もある。図書館も同様だ。うちの大学は、幸い、かなりすばやく近所の大学のどこかの図書館から希少本でもなんでも探し出して寄せてくれる。切手代を取られるのが難だが、それでも、ありがたい。著作権法に許される範囲内で、きれいにコピーして製本してから、ガンガン書き込んで読む。

 古本屋も、近ごろは楽になった。谷口雅男さんのふるほん文庫やさんとはずいぶん長いつきあいになる(できた当初、集中講義のついでに倉庫まで会いに行った)が、あんなに大きくなるとは思わなかった。その他の単行本も、いまやネット横断検索ができるようになった。腹立たしいのは、近ごろ、金儲け目当ての背取り屋が横行していることだ。以前、神田の古書店で、ヒュームの『人性論』の岩波文庫を6万円で売っていて、おまえが書いた本でもあるまいに、と、憤った(というわけで、図書館で借りて、やはり著作権法の範囲内でコピーした)が、そんなのが、いまやネット上にいっぱいだ。ふざけたのだと、絶版になってもいない私の本を、3倍ものプレミアムを乗せて売っているのが、アマゾンにいる。いったいどういうつもりか。それなら、オレも自分で出品するぞ。

 てなこと言っているうちに、今日も『十億年の宴』にはまってしまった。これも、ネットでは、ふさけた値段になっているらしいが、本を読めんやつは、美食を前にしながら舌がない人間のようで、じつにあわれだ。とはいえ、こんな調子では、私は、ぜんぜん本の片づけがはかどらん。困った。