語学の効用

 ちかごろ、どこの大学も、第二外国語は、あまり盛んではないらしい。まあ、海外でも、理系は、語学なんぞやらないようだが、文系もそれでいいのだろうか。

 私の場合、英語とドイツ語、おまけが漢文とラテン語だが、語学の重要さは、べつに会話の能力ではあるまい。数学は論理性を養う、というが、語学は、その論理性自体がじつはかなり多様であることを自覚させる。英語やラテン語は概して文法的なクセが弱いので、国際語としては役立つだろうが、語学として学ぶ意味はあまり無いかもしれない。これに比して、ドイツ語だの漢文だの、そして、おそらくフランス語も、日本語とはまったく異なる論理性を持っている。とにかく構文が単語に引っ張られるのだ。

 たとえば、ドイツ語なら、noch とか、auch とか、doch とかのような独特の副詞が構文の鍵になり、文章の展開が決まってくる。また、フランス語同様、決まり文句が多く、話の内容も、自然にそれへと落ちていく。漢文なら、者とか、以とか、関係節を導くものが、構文を決める。音節数の影響が強く、並列対句は得意だが、逆接が入ると、何に対する逆接なのか、とたんに意味がわかりにくくなる。 もちろん、こういう傾向は、日本語や英語でもあるのだが、自覚しにくい。(英語は、while やon the other hand のような時間並行的な対比の発想が全体の構文構造の根幹を形づくっている。)

 映画の字幕の場合も、かなり適当に当てることで、自然さをかもしだしているが、じつは意訳ですらないことも多い。近年、自動翻訳ソフトがさまざまに研究されているが、こういう国語別の論理性を踏まえないと、いかにも翻訳的で、その国の文章っぽくならない。むしろ、へたに翻訳ソフトを使うより、その国の言語で考えることで、多様な論理性を使って問題にアプローチすることができる。

 もちろん会話もできた方がいいが、会話だったら語学学校に行けばいいのであって、大学で語学を学ぶ意味は、本来、もっと他のところにあったのではないだろうか。それを軽んじて、1文完結の受け答えのような底の浅い旅行語学ばかりやっていて、文系そのものが存立するのだろうか。