【無限定体 apeiron】

アナクシマンドロス

 すべての限定者になりうるものは、すべての限定のないものでなければならない。なぜなら、ある特定の物質が始源であれば、それと対立する性質の物質は存在しているはずがないが、既知のいずれの物質にもそれと対立する性質の物質が必ず存在しているからである。それゆえ、始源である物質はいかなる既知の物質からも中立的な〈無限定体〉であるにちがいない。

 そして、この〈無限定体〉が運動しつつ、さまざまな分離が行われることによって、さまざまな限定体を生じる。しかし、それらの存在者は、その冒した不正に対して、時の順序に従って、つぎつぎと罰を受けて償いを払い、生滅していかなければならない。すなわち、世界には、火と空気、水、土が一定量の分限を保っていなければならないのだが、たとえば、火が分限を越えて勢力を拡大すれば、かつての火は、灰という土になるという償いをしなければならないのである。これは、人間社会の秩序である法律のアナロジーによって、自然に内在する秩序である自然法則を表現しようとしたものである。



 ソクラテスは、本来的な知恵は、目や耳からの現世的な方法では教ええず、むしろ、ひたすら魂が肉体的なものから離れて、純粋に思索してこそ魂は浄化されるのだ、と考えた。つまり、知識を持つことより、知恵を求めているその実践的活動、すなわち、知への愛(哲学)にこそ意味があるとしたのある。

 ところが、これは、別の面から言えば、自分はなにも考えを出さないくせに、ただ他人の見解のあら探しばかりすることにほかならず、彼はこれを徹底して行い、相手が何も言えなくしてしまう「しびれエイ」とも呼ばれ、まして、「ソクラテス以上の賢者なし」というデルフォイ神託が有名になっていたこともあり、世間では、自分の賢さを鼻にかけた高慢な「ソクラテスの皮肉、いやみ」と言われた。

 今日もプラトン著作からソクラテスのさまざまな主張を読みとこうという努力が営々としてなされてはいるが、実際のところ、彼との討論においては、およそ生産的な結論など出てきはしなかったように思われる。というのも、彼の議論の目的は、ソフィスト的な有益な結論などではなく、もともと破壊的に現世的な知識の小賢しさを暴き出し、無知を自覚することにあったのであり、その破壊的議論をすること自体が、魂の純粋な思惟として〈魂の浄化カタルシス〉に役立つと考えていたからである。