『インターステラー』を読み解く

 SF論の講義で『インターステラー』を題材にした。鬼才ノーラン。近頃、本のSFがファンタジー化、というよりライトノベル化する一方で、映画では『ゼロ・グラヴィティ』など、けっこうなハードSF、つまり、ガチ科学もので傑作が出ている。その中でも、これは出色だ。だが、映画だからといって、見えるものを見ていると、見えない。絵画で絵の具を見ていると絵が見えないのと同じ。

 『デューン』をはじめとして、SFのオマージュのてんこ盛り。この当たりで気付くべきなのだ。この映画で言う「星」が何であるかを。なぜ本棚を挟んで、不在の父親クーパーは、育って大人になっていく娘マーフィと向き合うのか。なぜ学校は『カプリコン1』を正史とするのか。

 宇宙だの、SFだのは、見せかけにすぎない。「星」は、物語そのもの。陳腐な物語世界とともに滅びていくのではなく、もっと別の物語世界へ。それこそが、人類を救う道。時空を越えるテサラクトは、図書館そのもの。我々の想像力は、この現実を飛び越え、別の「星」へ行くことができる。「彼ら」は、物語の読者。読者こそが、主人公をテサラクトに導く。この話そのものが、もともとメタな物語。だから、空間に時間、さらにパラレルな物語を含む五次元。

 ミヒャエル・エンデあたりなら、この生のテーマを、そのまま話にしただろう。ノーランのすごいのは、これをガチ科学で目に見えるイメージにして見せたこと。津波の星は、読み切れないほどの文字に溢れ、人生を失うような物語。氷の星は、宣伝ばかりで作者が喰って帰るためだけの不毛の物語。そして、エドマンズが死んだ後にアメリアが降り立ったのは、忘れられた、しかし、いまなお読者を待っている物語。そこへクーパーは、老いてなお、再び旅出つ。とてもシンボリックだ。

 読書は神秘的な体験だ。我々は、その世界の時間に没頭し、自分の時間を忘れる。戻ってきたときには、陽が暮れ、夜が更けてしまっている。でも、帰ってくるのでなければならない。いくら本を外側から表紙だけ見ていても、なにもわからない。中をくぐり抜け、その中側からしか、報告を返し、伝えることはできない。だから、それを、ここにこうして書いておこう。

 

ノーベル文学賞

 イシグロが取った。ボブ・ディランなどに較べれば、きわめて穏当なところだろう。取って当然だ。『日の名残り』は、技巧的にも、内容的にも、世界文学に名を刻む出来だった。一方、『私を離さないで』となると、むしろたちの悪い俗物SFのようで、あまり好きではない。

 ボブ・ディランが文学だ、というのなら、むしろジョン・レノンこそノーベル文学賞にふさわしかった。死人は無理だというのなら、ポール・サイモンの詩の方が、ボブ・ディランよりはるかに芸術性が高い。ボブ・ディランが取った以上、彼もいずれ同じ賞を取らないとおかしい。

 村上うんぬんと騒いでいる連中がいるが、それは無いのではないか。B’zや桑田が絶対にグラミー賞を取れないのと同じ。日本文学の読者というのは、日本語しか読めないやつらばかり。米国の戦前文学の元ネタを知っていたら、なにをいまさら、と、言う評価でしかないだろう。

 一方、微妙なのが、ジェフリー・アーチャーアーサー・ヘイリーの現代業界大河ドラマのスタイルをみごとに取り込んで、それに生きた人物をほおりこみ、いくつもの傑作を残した。とくに初期の『ケインとアベル』は、英国人が見た米国。移民とエスタブリッシュの対立をシンボリックに取り込みながら、合理性を越える人間の姿を描いている。古くはユーゴの『レミゼラブル』、アイン・ラントの『水源』などにも見られる定式ではあるが、生きること、働くこと、家族、血、など、生々しさが出色だ。

 しかし、いかんせん、アーチャーは前科者。本人自身が政治の渦中のどろどろでドラマを生きたような人物。とはいえ、男爵で、終身貴族院議員。いまさらノーベル文学賞などあってもなくてもどうでもいいと言えばいいのだが、文学性においても、通俗性においても、イシグロよりはるかに格が上だろう。ヘイリーは時代に寄りすぎた。一方、アーチャーは百年後にも読まれるだろう。イシグロは線が細く、もとより今の時代のノルタルジックな共感だけで、無理なのではないか。それとも、『方丈記』のような負け愚痴の感じで読み継がれるのだろうか。

ハインライン『夏への扉』のあらすじと読み方

 大学の教養演習(SF論)の今年の夏の課題図書だ。学生たちは、きちんとこれが読めただろうか。

 なぜこれが日本でしか受けないのか。駄作だから、魅力が無いからではない。生々しすぎるのだ。とにかく、日本のSFファン、とくに70年代の連中は、ノリでSFを語るばかりで、文学として小説を読む素養を欠いている。つまり、SFファンの自分が大好きなだけ。だが、文学として読む、ということは、心の痛みを感じとること。それが無いから、雰囲気として、好きとか、嫌いとか、ガキみたいな感想を評論と勘違いする。

 とくにハインラインは、めんどうな人物。軍人だがエンジニア、極左自由主義の極右保守主義者。アナーキーで厳格な組織人。大人にして子ども。そして、アメリカのドイツ人。この問題が透けて見えてしまうから、脳天気な日本人のように、かんたんに、好き、とか、嫌い、とか、言うだけでは、カタがつかない。『宇宙の戦士』もそうだが、軍隊の礼賛と軽蔑ががっちり絡み合ってしまっていて、読むと痛々しい。『夏への扉』は、それがもっとひどい。

 おそらく、SFガジェットてんこ盛りのパフェのような体裁に、バカな日本のSFファンは煙に巻かれる。挙げ句に、ロリだ、とまで言う。ちゃんと読めよ、リッキーが41歳になっていたとしても、30歳の自分には必要だ、って、書いてあるだろ。テーマは、信頼だ。リッキーの対極にあるのがベルで、こいつも、もともと年齢が上だか下だかわからないバケモノ。つまり、二人の女性は、シンボリックな永遠の存在。いつの時代にも、リッキーがいて、ベルがいる。

 起点にあるのは、1965年の六週間戦争。これが、主人公ダンから、母と妹を奪った。リッキーも、この戦争の間に実母を亡くし、その再婚相手のマイルズ、そして、インチキ戦争未亡人で、マイルズの再婚相手のベルの手に引き取られることになる運命。会社も特許も奪われてヤケになったダンは、こんな冬の時代はイヤだ、と、愛猫ピートと30年のコールドスリープして、その間に資産利殖を企むが、その直前にマイルズやベルに契約を書き換えられ、ピートも放り出され、1970年冬、ひとり、2000年へむりやり飛ばされてしまう。

 2000年、彼の冬の寒さは、むしろ悪化している。予定の資産利殖は、失敗。コールドスリーパーに対して、世間は冷たく、厄介者扱い。だからこそ、ピートはむりでも、せめてリッキーには、たとえ彼女が41歳になってしまっているにしても、会いたい。しかし、ようやく居場所を見つけたと思ったら、すでに結婚して、どこかへ去っていた。

 その一方、彼の考えていた発明が、自分と同じ名前の人物によって1970年に特許取得されている。なにがあったのか知りたい、と、トウィッチェル博士を挑発して、片道切符のタイムマシンで1970年の5月に飛ばさせる。ここで彼自身がその発明をして特許を取り、放り出されたピートを捕まえ、リッキーに危機を避ける方法を伝えて、ピートと再びコールドスリープで2001年春へ。そして、ここで、1981年にコールドスリープしたリッキーと落ち合い、結婚。

 作品としては、3部ないし3部半の構成で、1970年冬、2000~01年、1970年春~冬、そしてハッピーエンド解決の2001年春、となっている。最初がとにかくトロい、クドい、しつこい。一方、第二部の2000年は、いきなり看護人がロボットのイーガー・ビーバーで、謎解きの御都合主義が目立つ。ようやく第三部でテンポよく、最後のエピローグになだれこむ。

 第一部や第二部がクドいのは、次々と、どうでもいいSFガジェットのエピソードに脱線するから。かろうじてダーティング・ダンが筋の中に出てくるだけで、その他のほとんどすべては、ハインラインの思いつきを挟み込んだだけ。筋とはまったく関係が無い。タイムマシンだって、SF的な裏付けが薄い。本文にもあるように、過去を知るだけなら、資料で十分。ピートを救う、リッキーと30年の約束をする、というハッピーな解決の伏線の埋め込み直しのために、どうしても、過去に本人が戻る必要があった。

 だから、この作品の核となるのは、じつはコールドスリープの方だけ。「夏への扉」と、「コールドスリープ」は、対になっている。夏への扉が理想の夢なら、コールドスリープは、延々と続く悪夢そのもの。いま、日本で読んでもわかるまい。だが、当時も、そしてその後の米国でも、これが〈徴兵〉なのは、あまりにも明らかだった。だから、この話は、嫌われた。ハインライン自身、1925年の18歳から十年間、従軍している。しかし、その間の結婚に失敗、海軍で結核に罹患し、傷病除隊後、生活は困窮。第二次世界大戦でふたたび技師として従軍し、1947年に10歳年下のジニーと再々婚して、ようやく作家として成功する。

 従軍、とくに長期、外洋に出て連絡が取れなくなる海軍の艦艇勤務は、コールドスリープに等しい。『シェルブール』や『ひまわり』でも語られるように、愛情も、関係も、引き裂く。それどころか、委託してあった財産も、途中の事情の急変に対応できず、露と消える。帰ってきても、なにもかもが変わってしまっている。そのうえ、『ランボー』同様、世間は、帰還兵に対して、時間の抜け落ちた、使いものにならない者、として冷たい。お人好しで、だれでも信じ、すべてを失ってしまうダンは、その象徴だ。政府補助のスクラップ工場くらいしか、働き場が無い。

 コールドスリープは、もうひとつ、ドイツ系アメリカ人にとっては、目前の現実でもあった。ドイツ系移民は、米国に来たのも遅く、祖父祖母はドイツに残った場合もすくなくなかった。それが、第二次世界大戦の勃発で、米国内で敵性を疑われ排除される一方、ドイツ本国の親族との連絡を絶たれた。戦争が終わって、その生死を記録でたどるのは、容易なことではなかった。通貨は紙くずになり、財産も瓦礫の中に消えた。くわえて、この小説が書かれた1956年、ベルリンには壁が築かれ、東西の親族さえも分断された。東側に呑み込まれた者の消息は、米国ではまったくわからなくなった。

 信頼と家族、財産。ハッピーエンドは、現実の悲惨さの陰画だ。徴兵される前に、戦争が始まる前に、壁が築かれる前に、こうしておけばよかった、という後悔の裏返し。そうしておけば、いまごろは、という、ありもしない、失われた現在が描き出されている。最後でパラレルワールドが語られ、こんなタイムリープは二度と繰り返したくない、この幸せを失うかもしれないから、と言われる理由は、これ。こんな痛々しい話を、爽やかで、希望に溢れている、なんてバカな読み方をするのは、徴兵も、戦争も、壁も知らない、平和ボケした脳天気な70年代の日本のSFファンだけ。

『オーム・シャンティ・オーム』はインド映画じゃない

 学生たちに見せたのだが、ちょっと失敗したかなと思っている。一般教養なので、とにかく映画の基礎が無い。うわぁ、インド映画だ、というところで頭が止まってしまっている。ネットを見ても、宝塚ファンを含め、同じような「バカ」ばっか。結局、見えても見えないのか。

 この映画が公開されたのは、ちょうどドイツのマインツ大学のメディア学部映画学科で客員教授をしているとき。ドイツ、とくにマインツはインド人が多いので、すぐにDVDが入ってきた。みな、かなり驚かされた。とにかくインド映画っぽくないのだ。

 スタジオの30周年記念ということで、1970年代から話は始まる。ちょっと調べれば、パロディとして取り込んでいるインドのヒット曲、ヒット番組がゴロコロ出てくる。昨年の『ラ・ラ・ランド』のオマージュ寄せ集めの手法を先取りしていた。しかし、それだけではない。話自体が、1980年の『カルツ』のミュージカル化リメイクで、オリジナルではない。主人公が生まれ変わった後のカプールという姓も、この元作品の主演リシ・カープルの映画一家がモデルであることを示している。

 にもかかわらず、インド映画っぽくないのは、シーンやカットがハリウッドの古典はもちろん、フランスの作家の撮り方を大量に取り込んでいるから。そもそもダンスシーン、ミュージックシーンがあるといっても、3つの撮影劇中曲の他は、同じテーマ曲の歌詞を変えたヴァリエーション。1つの映画でアルバム1枚というような、ナヴァ・ラサを重んじる、いわゆるインド映画の曲の付け方とは根本から異なる。

 なにより、主人公が、ハッピーでないとエンドでない、と言っているのに、話がハッピーエンドではない。カーテンコールにスタッフまでハッピーであるかのように踊って出てきて、うまくごまかしているが、これは、わかっていて、わざとやっている。これは、ふつうの量産型インド映画とは決定的に違う。もっと、ものすごく緻密な構成が張り巡らされている。

 前半は70年代の端役青年、後半は現代の七光りスター。映画業界を裏と表とから描き、表の中に潜んでいる裏を暴き出す。映画だと、同じ役者なので、かえって混乱するが、設定上は、前世のオームと現代のオームは、まったく顔も似ていない。ただ、母親だけが、遅くなっても帰ってくる、と言い残して死んだ息子だと気付いた。ぎゃくに、シャンティの方は、現代のサンディと顔がそっくりなだけで、まったくの別人。さらに、もともと70年代にシャンティ主演で撮ろうとしていた映画こそが『オーム・シャンティ・オーム』。しかし、シャンティの「不慮」の事故で、お蔵入り。それを、生まれ変わりで現代の七光りスターのオームが、もう一度、撮ろうと言い出す。つまり、この映画そのものを撮影する話がクラインの壺のように自己言及の劇中劇として埋め込まれている。

 この構造は、この映画そのものがたらふく抱え込んでいる大量のオマージュをも正当化する。演技すること、映画を撮ること、それが過去の膨大な作品群のレガシーの上で成り立っており、忘れ去られようとしていながらも、作品の亡霊として現前と立ち現れるイメージを再現することで、新しい作品となる。

 ヨーロッパなら受難劇、日本なら『忠臣蔵』のようなものを考えた方がわかりやすいだろう。なぜ繰り返し上演、映画化するのか。前の作品があれば、それでいいではないか。いや、そうではないのだ。作品そのものが輪廻する。ハッピーもなにも、エンドなど無い。永遠に繰り返し作られ続けていく。その中で、主演の俳優が、歴史の端役を演じ、また、言葉を残せず死んでいった人々の思いを語り出す。

 こういうややこしい映画の本質に関わる深い話を、バカでも喜ぶエンターテイメントで甘口コーティングして仕上げて売っ払らってしまったのが、この映画のすごいところ。気付くヤツだけ気付けばいい、ただ、ハッピーではないからエンドではない、それくらい気づけよ、というところか。黒沢の『羅生門』を改変リメイクした『去年マリエンバートで』とか、『サンセット大通り』を改変リメイクした『マルホランド・ドライヴ』とかと並ぶ厄介な構造でありながら、ああいうわざとらしい、もったいぶった難解さのかけらも見せない。が、インド映画だから、といって、バカ騒ぎしているだけの連中には、結局、なにも見えないのだろう。

成城学園の合同クラス会

 地方だ、海外だ、と、東京を離れて、もう何年になるやら。成城学園が百周年とかで、中高校舎も新しくなり、合同クラス会があったとか。行かれなかったが、写真だけ頂いた。京大の石川くんは、まめに顔を出しているようで、えらいなぁと思う。親しかった渡辺くんも、学内に残って、ずいぶん偉くなった。そのほかにも懐かしい顔が並んでいる。が、みな老けたな。

 もともと成城生まれの成城育ち。というより、百年前に成城学園ができたから、母方の祖父が本所深川から、父方の祖父が海外から成城に越してきた。その縁で両親も出会ったのだし、大学時代の数多い恩師方々まで、やたら成城玉川絡み。私学、とくに成城のようなところは、だれだれのお友達の息子さんのなんとか、というように、人間がつながっている。もっとも一時は、成城と玉川の分裂騒ぎで大変だったらしいが。

 街も変わった。成城憲章で、生垣しかつくらない、とされていたのに、いつの間にか高い壁だらけになった。それも、いまやかつての一件が四件、五件に割られ、ところによっては数十件の高級マンションになっている。googleストリートで街並みを見ても、どこがどこだか、もうわからないところだらけ。ここは俳優の○○さん、ここはヤクザの××さん、なんていう目立つ豪邸もあったが、いまはさらに派手な家になっている。いったいだれが住んでいるのやら。

 あの街で、知っている人で生きている人の方がもう少ない。隣近所すら、まったくもうわからない。こうして学校の建物もピカピカに変わり、教室の窓から見えた景色に面影も無い。近ければ、自分のところの子供たちも成城にお世話になりたいと思ったが、東京に戻る予定も無く、戻るところも無い。いまいるところも、悪くない。いや、バブルで昔の成城の街の気風が失われてしまった今となっては、いまいるところの方が成城っぽいかも。

 結局のところ、自分の知っている成城の街、成城の学校は、現実にはもうどこにも無い。学友たちもみな、こうして老けていく。私もきっと老けたのだろう。

『恋はデジャヴ(グランドホッグデイ)』

 子供のころ、寝る前に母親が本を読んでくれた。王子さまだの、お姫さまだの出てくるから、すっかり騙されていたが、後で気づいた。あれは、スコット卿の『アイヴァンホー』だ。ちょうど文庫の上巻が出たころ。自分が読みたかったから、読んでくれただけだったように思う。やにややこしくて、ノルマンだ、サクソンだ、十字軍だ、など、子供にわかるわけがない。おかげで、すぐに眠くなった。

 その後も騎士物語は大好きだ。アーサー王とその外伝はもちろん、ニーベルンゲンの歌、トリスタン物語、アマディス・ガウラまで、うそっぱちの話に心を躍らせた。そんな中、スコット卿の名前は、とてもなつかしい。

Lay of the Last Minstrel, Canto VI (My Native Land)

Breathes there the man, with soul so dead,

 Who never to himself hath said,

This is my own, my native land!

  息だけするは、魂の死んだ男、

   ここが自分の生まれた国などと、

   こいつはどこにも思ったことが無い。

Whose heart hath ne'er within him burn'd,

 As home his footsteps he hath turn'd

From wandering on a foreign strand!

  異国の海辺をさまよって、

  ようやく帰途についたとしても、

   彼の心は弾みもしない。

If such there breathe, go, mark him well;

For him no Minstrel raptures swell;

  こいつがまだ息をしていたら、行ってよく見ろ、

   吟遊詩の喜びさえ彼を楽しませないのを。

High though his titles, proud his name,

 Boundless his wealth as wish can claim;

 Despite those titles, power, and pelf,

 The wretch, concentred all in self,

  身分高く、名声広く、望みうる限りの富を得ても、

    こんな位、力、金に目もくれず、

    このろくでなしは自分のことしか考えられない。

Living, shall forfeit fair renown,

 And, doubly dying, shall go down

 To the vile dust, from whence he sprung,

 Unwept, unhonour'd, and unsung.

  生きながら、立派な名望も失い、

   二重に死んで、彼の出た卑しい塵へと墜ちるが、

   泣かれも、讃えられも、謡われもしない。

 同じものを見えれば、同じものが見えるわけではない。ニーチェがどうこうなどと言うのは、表面的。これは根は郷愁の話。自分のふるさとは自分で作る。自分から逃げてばかりいる者、スコット卿を知らない者が、この映画を見ても、結局、なにも見えるまい。東大の学生だったころはよかった。同じ世界を知っている友人たちがいたから。どうせいま、世間の人々と話が合わない。自分が合わせる気もないし、合わせない世間を恨む気もない。以来、ずっと「異邦人」の「異国」にいる、というだけのこと。

 しかし、少なくとも私は、ここが自分の生まれた国、というものはある。こうしてスコット卿の名を聞けば、いろいろ思い出すことも多い。文化的郷土を持たない連中は、この映画の皮肉を見ても、我がことは気付かないだろう。そして、がんばればいつか夢はかなうと思いました、というような、ディズニーの安っぽい受け売りを言って終わる。そして、毎日、その金ぴかモットーを唱えるだけで、人生のすべてを失う。伝える言葉も無いが、どうにもならない。

『ナポレオン・ダイナマイト(バス男)』といじめ問題

 学生に見せたが、きちんとわかるやつがいる一方、表面的なおもしろさしかわからんやつ、それすらもわからんやつも少なくなかった。第一には、自分たちに似すぎて、わざわざ映画で見る意味が無い、という反応だろう。第二は、似すぎているからこそ、見たくない、というもの。そして、第三は、嫉妬。おれよりダサいくせに、幸せそうになりやがって。面倒なやつら。

 かといって、がんばれば夢は叶うと思いました、みたいな「感想」も、食傷する。こういう学生は、映画なんか見ても見なくても同じ。自分の考えている安っぽいことを、投影するだけで、人の話など、理解する窓口すらない。無表情で感情が無い、なんて言う学生もいる。あのね、マンガみたいに大げさな表情のやつほど、薄っぺらで物事を深く考えてないんだよ。

 『バス男』というタイトルにケチをつけていた連中も似たようなもの。もともとは『電車男』にあやかったのだろうが、そんなに映画の主題を外していない。高校生にもなって車の免許も無い、子供用のスクールバスで通学するような冴えない田舎者の青年だが、最後には馬に乗っている。車に乗れなくたって、馬に乗れる。田舎には田舎のかっこよさがある。つまり、あの最後の結婚式の乗馬シーンは、蛇足ではない。最初のバスのシーンと、きちんと呼応するために、むしろ必要だった。

 もっとも決定的なのが、レックス武道教室。なんのためのシーンかわからない、なんていうやつもいる。でも、あそこで主人公は魔法にかかる。この映画のメッセージは、ぜんぶきちんと言葉で説明してされてる。

At Rex Kwan Do, we use the buddy system. No more flying solo. You need somebody watching your back - AT ALL TIMES. Second off, you're gonna learn to discipline your image. Last off, my students will learn about self respect. I'm Rex, founder of the Rex Kwan Do self-defense system! After one week with me in my dojo, you'll be prepared to defend yourself with the strength of a grizzly, the reflexes of a puma, and the wisdom of a man.

まず、レックス武道では、相棒システムを使う。もう、一人でムリをするな。おまえは、後を見守ってくれているやつを必要としている、いついかなるときも、だ。第二に、おまえは、自分のイメージを鍛えるということを学ぶだろう。そして、最後に、おれの生徒たちは、自分を大切にすることについて学んでいく。これが、私、レックスの作った自己防衛システムだ。一週間後には、熊の強さ、豹の速さ、そして、人間の知恵で自分を守れるようになる。

 スクールカーストの底辺のいじめられっ子。仲間を作ろう、自分のイメージを鍛えよう、そして、なにより自分を大切にしよう、ちゃんと、レックス先生は、教えてくれている。いじめられっ子がドツボにはまるのは、ただいじめられているというだけでなく、与えられた罵倒を真に受けて、セルフネグレクトになるからだ。だから、よけいいじめられる。これは、引きこもりやハラスメントでも同じ。もちろん、いじめるやつが悪いにきまっている。だが、そこから抜け出すには、まず自己防衛が必要だ。

 『ネバーエンディングストーリー』にも出てくるように、どこの国のどこの学校でも、いじめ問題はある。当然、周囲は、それを止める責任がある。だが、本人自身が、現状打破する覚悟を決めないことには、周囲だけではどうにもならないところがある。インチキ臭いが、レックス先生に学ぼう。

 ついでながら、レックス先生の奥様役は、女性ボディビルダーのスター、カーメン・ブレイディ。おまけに、テープをくれたナポレオンの兄貴の彼女、ラフォンダーの友達は、アシッドジャズのジャミロクワイ。なかなかのキャスティングだ。 

スマホ時代の電子書籍の書き方

 電子書籍が微妙に息を吹き返している。専用電子端末を買わないといけないのが、大きなハードルだったのだが、いまやスマホがパソコンを抜くほどの普及率。ミュージックダウンロードやニュース配信も、ネタ切れ、息切れのところで、とりあえずはLineとYouTubeが主流。Amazonfacebook、まして楽天のようにムダに1ページあたりの情報量が多すぎるものは、スマホの小さな画面では敬遠される。

 で、電子書籍。これまで本は、面でレイアウトデザインされてきた。文庫ですら、150x105mm。ところが、スマホは、画面はおよそ100x60mmしかない。それも、アスペクトが16:9で、縦長。文庫だと、ページあたり42字17行くらいいけるが、スマホは12ポイントで20字9行がいいところ。英字だと、10ポイント、9ポイントくらいまで落とせるが、漢字だと画数が多いから潰れてしまう。

 コミックの電子書籍でも、新書サイズ、文庫サイズくらいまでならともかく、スマホまで落とすと、かなり厳しい。まして、雑誌で見開きだの、コマはみ出しだのという技法を使ってしまったものは、いちいち倍率を変え、縦横を変え、見るのもかなり面倒。むしろ、バカにしていた4コマが、やたら収まりがいい。それで、最近は、ネットでも、4コママンガつきの主婦ブロガーみたいなのが人気。

 20字9行というのは、原稿用紙のペラの半分以下。ちょっと込み入った、従属節だの、関係節だのが入り込んでいる構文だと、1画面の中で表示できない。ようするに、twitterやLineのような文章が最適、ということ。俳句や短歌、一発コピーとか、今日の格言みたいなのもいいだろう。

 しかし、こんなんばかりだと、人間、バカになりそう。感性的、と言えば聞こえがいいが、思考に論理的な構造を持たない脊髄反射みたいなことしかできない。セリフを駆使して、その行間に論理を組み立てていくような工夫をしないと、時代を超えていくことができない。

「願いごとの持ち腐れ」とクラシック業界

NHK合唱コンクールの中学校の部の課題曲。みんなの歌ではAKB48が歌っていたからか、商業主義だの、視聴率主義だの、音楽的価値が低いだの、日本語の発声を知らないだの、なんだの、とくに合唱部指導者たちが文句を言っている。まあ、一言で言えば、ジャンルが違う、ということ。逆に言えば、サリエリの時代、オペラは母音の多いイタリア語でないといけない、ドイツ語は無声音だらけで歌にはならない、と言っていた連中と同じ。

音楽的価値という意味では、ピカルディ三度休止を使うなど、和声的にわけのわからない現代合唱曲より、むしろはるかに古典的で正統的だ。構成も、これまたむしろ正規反復構造と移調、分離で、むしろ古くさすぎるくらい。発声で言えば、ベルカンテとも違うカスカスでノンビブラートの立体化にしかなりようがなく、ポップスより、いわゆる日本的な合唱曲の歌い方。

しかし、問題は、もっと根本のところ、貶している連中が、言葉にも出さないところ、出したくないところにある。それは、クラシックしかやってきていない古い世代が、致命的にリズム音痴だ、ということ。この曲は、3拍子ではなく、ジャズワルツ。ズンタッタ、ではなく、ズタッタッタツ、という、二拍目、三拍目が三連符的に前に乗って、3泊目の最後に裏打ちが入る。やつら、これができない。指導すれば、無能がバレる。それで、文句をつけているのだと思う。

もちろん若い連中は、宇多田など、とっくの昔に体得している。現代音楽だって、ガーシュイン以降、「テイクファイブ」や「クレオパトラの夢」のようなジャジーな5拍子は当たり前。バレエ音楽でも、しょっちゅう出てくるし、バーンシュタインなんか、むしろ得意とするところだ。ところが、日本の師範大学系程度では、西洋音楽の輸入、百五〇年を経てなお、これをきちんとやっていない。そのアラを衝かれた。

自分ができない=曲が悪い、という大仰な態度そのものからして、業界体質を表している。課題曲は、やりにくい分野に幅を拡げさせるからこそ課題。課題曲としてしかだれも歌わない、聞かない珍妙な曲を、仲間内で濫造し強制てきた独特の業界利権が破られたことに対する不満も本音ではあるのではないか。AKBに限らないが、「桜の栞」なみに人々の耳にすんなりと入ってくる曲を作れずにいながら、その業界的ぬるま湯を、いまなお温存しようとしていれば、コンクールはもちろん、合唱部そのものが叩き壊されるのがわからないらしい。

世代交代を甘く見過ぎだ。歌う中学生も、聞く世間も、ハートビートはどんどん進化している。古典芸能のすり足のようなものだけが合唱だ、それ以外は認めない、と言っても、スニーカーでぴょんぴょんやっている世代は、自分たちの音楽を歌い出す。音楽は、指導者のためにあるんじゃない。歌う者のためにある。それを自称指導者たちがジャマをしても、歌声はそれをすりぬけて行く。

『朝まで生テレビ!』30周年

 今日、記念パーティだとか。お招きいただいたが、大学が始まったばかりで、伺えず、とても残念だ。プロデューサーの吉成氏や久利先生、番組スタッフ、田原氏や渡辺氏、美里女史など、論客出演者と、お世話になった方々はあまりに多く、その恩は年とともに深く感じ入るばかりなのに、あちこちを飛び回り駆け巡るような気力体力もまた年とともに失われ、ただ遠くから番組のことを思うばかり。

 それにしても、長寿だ。当時は隣でやっていた女子大生深夜番組のようなものの方が人気で、こっちはまあ月一の単発特番くらいのもので終わるだろうと思われていた。それが、これほどまでに続いているのは、田原氏や吉成氏、久利先生の絶えざる時代への関心のたまものだろう。一方、こっちは、田舎の大学で、呑気に、いつのものともわからぬ芸術にうつつを抜かして、ぬくぬくと安穏な日々を送っている。

 とはいえ、時勢は厳しい。私も、ほとんどすべての新聞雑誌をサヴェイさせていただいていたあのころ以上に、いまはネットで国内外の詳細な情報も入るし、個人的に世界の友人から様子を聞く機会も増えた。ウラが無く、テレビにはまだ載らない話が溢れている。いろいろ危惧するところはあるが、自分になにができるわけでなし、さらなる番組の発展を望むくらいか。

パソコンのオーバースペック

 新学期、新生活で、電気屋のチラシを見ると思う、こんなすごいの、使えるのか? 3DCGゲームだの、4K動画編集だのするのでなければ、ワードくらいだろう。エクセルだって、縦横集計くらいか。どうせメインはスマホのSNSなのだろうし、いったい普通の人は、あれほどのオーバースペックなパソコンを買って、何をするのだろう。

 もちろん電気屋が悪い。買う方も、高級腕時計のような感覚なのかもしれない。だが、高い時計を買っても、寿命が倍になるわけじゃない。ハイスペックはパソコンを使ったからと言って、小説がかけたり、数万件の売り上げを集計したりするようになるわけじゃない。ただひとこと、バカっぽいだけ。

 以前、海外でガイドさんが出たばかりのiPadをうまく使いこなしていて感心した。昔ならボードで説明するような地図、拡大図、見どころ、季節違い、時間違いのようすなど、目に見えるものに目に見えないものを補うのに活用していた。ああいうのは、道具以上に、道具の使い方を自分で作っているからこそだろう。

 パソコンも最初のころはそうだった。なんに使えるかわからない機械で、文字で絵を描いたり、ビープ音で音楽を作ったり、いろいろ工夫した。いまは、手ごろなアプリがごろごろある。そんな面倒なことはだれもやらない。なのに、使い道も、楽しみも減った。どうしてなのだろう。

物語産業の閉塞感

 ハリウッドでは、『LA LA LAND』のアカデミー賞がグダグダに終わった後、やたら実写版『美女と野獣』の話題をむりやり盛り上げようとしている。LALAがしろんぼジャズで、アカデミー賞の白人優位のそしりを避けるように、受賞までごたごただったが、こんどはむりやりLGBTを突っ込むから、速くも主役がかすんでしまっている。

 『リトルマーメイド』『美女と野獣』『ノートルダムの鐘』と、カッツェンバーグを中心に、古典の中の新しさを読み出すことによって、声を失う=異国嫁、ワイヤード、ノーマリゼイションなど、現代的テーマとして、新しいディズニーミュージカルを生み出したのも、はや四半世紀も前。内紛で、みるみるディズニーは創造力を失い、その遺産の使い回しに終始している。いや、ディズニーだけでなく、ハリウッド、米国そのものがヒットの力を失った。『タイタニック』のような古典と現代のすりあわせができなくなって、リメイクだらけ。

 日本も似たようなもの。アニメで当たったもの、過去の映画のリメイクやアダプテーション。無名のワイルドキャットより、政策委員会方式の会議を通りやすい。映画は、なにより投資だ。危ない橋を好んで渡るやつはいない。しかし、そのわりに、実績皆無の変なやつを脚本に抜擢したり、ムラの大きい監督をあてがったり、平気で自滅的なことをやる。

 ハリウッドの全盛期、1990年代、ストーリーアナリストがうまく機能していた。製作費からマーケティングまで総合的に判断して、投資物件としての物語にコンサルタントとして助言する。彼らの多くは、テレビ全盛の中で映画を生き残らせてきた世代。ぎりぎりの嗅覚にすぐれていた。一方、いまは、むしろ逆に、ハリウッドでも、日本でも、テレビ全盛のジャブジャブを生きてきた連中が、映画にまで進出している。テレビと同じ調子で映画を作る。コスト意識とか、マーケティングとか、スポンサーべったりのテレビの感覚から抜け出られない。

 いま、ユーチューバーのようなのは、3分タレント。フォークが漫才になって、ユーチューバーにシフトしただけ。だが、そのうち、ユーチューブの三船みたいな快優、それをまとめる監督、その脚本家みたいなのが出てくる。かれらは、台詞に依存せずに、びしっとシリアスなドラマを見せてくれるだろう。そこまでもう少しだ。若手に期待しよう。

曜変天目茶碗の真贋

 あんなん、見るからに化学塗料なんか使ってないだろ。真贋はともかく、見てわからんのなら、専門家だかなんだか知らないが、売名とのそしりを受けても仕方あるまい。

 それより、その自称専門家とやらの方が、茶碗よりはるかに、うさんくさい。そもそも、曜変を自分で作っている、なんていうこと自体、どうなの? たとえほんとうにできたとしても、そんなピカピカのもの、絶対にホンモノとは言われえない、ということがわからないくらい、茶碗のドシロウトと言わざるをえない。

 そりゃもちろん、あれは最高傑作とは言いがたい。もし贋作なら、あえてのあれだろうから、かなり手が込んでいるし、むしろ贋作としての良いセンスを感じる。茶碗の美しさ、というのは、ものもさることながら、来歴も含めてのこと。来歴も無いものを物理的に作っても、そんなものは美しくもなんともない。逆に、たとえ贋作としても、贋作なりのみごとな来歴があれば、それはそれで美しい。

 そもそも、最近、なんでもだれでも「専門家」を名乗りすぎ。いったん死んで、死にきって、その灰から生まれ出てくるようなキャリアも無しに、長年、やってる、というだけで、専門家になれるなら、苦労は無い。茶碗も、火をくぐり、年月を経て、枯れて忘れられてなお、輝きを失わないとき、それがホンモノ。人間も同じ。

『日本風景論』と現在

1894年、日清戦争の始まった年、志賀重昂が出した。当時、31歳。88年から政教社で週刊(隔週刊)『日本人』を出し、「国粋主義」を唱えていた志賀が、日本風土を、その多様さ、水蒸気、火山、流水などから具体的に論じたもの。いま読んでも、十分におもしろい。

とはいえ、いま、この国の風土を、これらの要素で語れるのか、というと、疑わしい。まず多様さが失われた。北海道から九州まで、どこでも同じ。蒸し暑さ、多雨多雪というのは、海外と比べての話なのだろうが、いまや世界でもっとひどいところも多く知られるようになり、あまり説得力が無い。火山については、地震の頻発でも実感されるが、都会の生活で身近か、というと、そんなことはない。まして、流水など、ほとんどが暗渠化し、県境の川でもなければ、目にする機会の方が少ない。

しかし、それは世界でも同じだろう。どこでも同じようなビルが建っていて、その中では、寒暖もあまり無い。生活習慣も国際化して、食品から娯楽まで、その国の風土らしさのようなものは消え去ってしまった。ドイツ人がカレーソーセージを好み、日本人がラーメンをほうばり、アメリカ人が寿司をつつく。それが現実。

そのせいで、日本のどこへ行っても、世界のどこを旅行しても、いわゆる町中では、あまり代わり映えがしない。便利になったと言えばなったのだろうが、あまりわざわざそこに行かなければ見られない、食べられない、感じられないというものが無くなった。画一化。そういうところには観光客が行く価値もあるまい。

国粋といっても、諸藩の寄せ集めで、なにが日本の国風だったかわからなかったからこそ、志賀は日本らしさというものを論じなければならなかった。いまは逆に、我々自身の存在価値、日本そのものの存在意義を明らかにするべく、ここまで薄まってしまった日本らしさを再濃縮して再認識する必要を生じてきているように思う。それこそが、国粋。しかし、さて、そんなものがまだこの国に残っているだろうか。

『ノートルダムの鐘』の聲の形

 『美女と野獣』に続いて劇団四季がやっている。まあ、みんな、うまくなったから、そつなくこなすだろう。また、なにしろ、あの金額だ。豪華なメガミュージカル仕立てで、楽しませてくれることだろう。機会があれば、ぜひ見に行きたいとは思っている。

 ただ、このミュージカルの経緯は、いろいろややこしい。知ってのとおり、最初は96年のアニメ映画だ。それが2002年に、ベルリンでディズニーによってドイツ語版の舞台化。これがフロリダのデイズニーパークのひとつ、「ハリウッド」スタジオズ30分版ライブで上演。だが、2014年秋、カリフォルニア大サンディエゴ校ラホーヤ劇場で試験上演され、2015年春にニュージャージー・ペーパーミル劇場にかけられた版は、アニメ映画版の楽曲の多くを使っているものの、ストーリーは大人向けに重厚に書き換えられている。特徴的なのは、フロロのプレクオール(前話)が補強された(ユーゴの原作だとプロロとカジモドは表裏一体)のと、コミックリリーフの石像3体がカットされたこと。

 劇団四季は、この新しい方の版をやるらしい。が、先の発表会で、カジモド役が大声で歌っていて、だいじょうぶか、と思った。というのも、この2015年版は、その製作途中で大きな問題にぶつかったから。それは、原作に戻るなら、カジモドは聾唖者だ、ということ。だからこそ、大音量で鳴る鐘を衝く寺男として、あの鐘楼に住んでいられる。そんな彼が、自分の声で歌なんか歌えるわけがない。それで、彼がひとりでいるところでしか歌わない、という奇妙なシバリでごまかした。だが、ごまかしはごまかしだ。根本のところで、アニメ版の段階で、まちがえた、原作の読み込みが浅かったことは、ごまかしきれない。

 ところが、カリフォルニア・サクラメントのミュージック・サーカスが今年の夏(8月23-28日)に上演した、同じ『ノートルダムの鐘』には、肝を潰された。ステージはシンプルでシンボリックで、ミニマム。もともと、劇団四季がやるような大劇場と違って、舞台が小さい。問題は、そこではない。なんと、主役のカジモドがまったく歌わない。せむしであるだけでなく、原作どおり、聾唖者なのだ。「僕の願い」を歌うのは、石像たち。そう、石像たちこそが、カジモドの心の聲の形。だから、あえて復活させた。

 カジモドのセリフは、すべてホンモノの手話。まれに声を出すが、はっきりしない。むしろ、彼にしかわからない手話で、声無しに歌う。そもそも、彼には、まわりの人々の言っていることがうまく聞こえていない。彼は、寺院の壁に閉じ込められているだけでなく、理解の壁にも閉じ込められている。ただエスメラルダだけが手話ができ、目を見つめ合って、手を握り合っているとき、ようやく言葉が通じ、心が開かれる。

 映画からもう20年。この演出を知ったら、映画のスタッフ、2015年版のスタッフは、自分たちの傲慢さを恥じ入って、ぜんぶを作り直したい、と思うだろう。彼らも、うすうす気づいていたのだ。だから、石像が必要だった。なのに、ミュージカルだから、ということで、カジモドを安易に歌わせてしまった。カジモド自身の声、彼の手話に目を向けようともせずに。

 でかい声を響かせるだけがミュージカルじゃない。スペクタクルな舞台装置というのも、もはや時代遅れ。ちゃんと手元を見て、目を合わせて聞こう。これは、もともとそういう話だったのだから。