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『ノートルダムの鐘』の聲の形

 『美女と野獣』に続いて劇団四季がやっている。まあ、みんな、うまくなったから、そつなくこなすだろう。また、なにしろ、あの金額だ。豪華なメガミュージカル仕立てで、楽しませてくれることだろう。機会があれば、ぜひ見に行きたいとは思っている。

 ただ、このミュージカルの経緯は、いろいろややこしい。知ってのとおり、最初は96年のアニメ映画だ。それが2002年に、ベルリンでディズニーによってドイツ語版の舞台化。これがフロリダのデイズニーパークのひとつ、「ハリウッド」スタジオズ30分版ライブで上演。だが、2014年秋、カリフォルニア大サンディエゴ校ラホーヤ劇場で試験上演され、2015年春にニュージャージー・ペーパーミル劇場にかけられた版は、アニメ映画版の楽曲の多くを使っているものの、ストーリーは大人向けに重厚に書き換えられている。特徴的なのは、フロロのプレクオール(前話)が補強された(ユーゴの原作だとプロロとカジモドは表裏一体)のと、コミックリリーフの石像3体がカットされたこと。

 劇団四季は、この新しい方の版をやるらしい。が、先の発表会で、カジモド役が大声で歌っていて、だいじょうぶか、と思った。というのも、この2015年版は、その製作途中で大きな問題にぶつかったから。それは、原作に戻るなら、カジモドは聾唖者だ、ということ。だからこそ、大音量で鳴る鐘を衝く寺男として、あの鐘楼に住んでいられる。そんな彼が、自分の声で歌なんか歌えるわけがない。それで、彼がひとりでいるところでしか歌わない、という奇妙なシバリでごまかした。だが、ごまかしはごまかしだ。根本のところで、アニメ版の段階で、まちがえた、原作の読み込みが浅かったことは、ごまかしきれない。

 ところが、カリフォルニア・サクラメントのミュージック・サーカスが今年の夏(8月23-28日)に上演した、同じ『ノートルダムの鐘』には、肝を潰された。ステージはシンプルでシンボリックで、ミニマム。もともと、劇団四季がやるような大劇場と違って、舞台が小さい。問題は、そこではない。なんと、主役のカジモドがまったく歌わない。せむしであるだけでなく、原作どおり、聾唖者なのだ。「僕の願い」を歌うのは、石像たち。そう、石像たちこそが、カジモドの心の聲の形。だから、あえて復活させた。

 カジモドのセリフは、すべてホンモノの手話。まれに声を出すが、はっきりしない。むしろ、彼にしかわからない手話で、声無しに歌う。そもそも、彼には、まわりの人々の言っていることがうまく聞こえていない。彼は、寺院の壁に閉じ込められているだけでなく、理解の壁にも閉じ込められている。ただエスメラルダだけが手話ができ、目を見つめ合って、手を握り合っているとき、ようやく言葉が通じ、心が開かれる。

 映画からもう20年。この演出を知ったら、映画のスタッフ、2015年版のスタッフは、自分たちの傲慢さを恥じ入って、ぜんぶを作り直したい、と思うだろう。彼らも、うすうす気づいていたのだ。だから、石像が必要だった。なのに、ミュージカルだから、ということで、カジモドを安易に歌わせてしまった。カジモド自身の声、彼の手話に目を向けようともせずに。

 でかい声を響かせるだけがミュージカルじゃない。スペクタクルな舞台装置というのも、もはや時代遅れ。ちゃんと手元を見て、目を合わせて聞こう。これは、もともとそういう話だったのだから。

LA LA LAND の大ヒット

『フローズン(アナと雪の女王)』のあと、米国映画は冴えなかった。ところが、この夏あたりから、この『ラ・ラ・ランド』の評判がかなり広まってきてきた。そして、12月、公開とともに大ヒット。来年には日本にも入ってくるだろうが、本来はあくまでクリスマス映画だ。

ミュージカル、それも全曲がオリジナル。ラ・ラのLAは、ロサンジェルスにほかならない。グリフィス天文台など、やたらロケーションがきれい。でも、フレッド・アステアの時代のようなダンス満載。曲がジャズでなければ、やたら彩度が高く、まるでボリウッド映画のようだ。

主人公は、女優を夢見るスタジオのコーヒー係、ミア。一方は、クリスマスソングをジャズってクビになったセバスチャン。出会って、別れて、五年後、再会。しかし、そのときには、それぞれの人生を生きている、という、ストーリーも、ミュージカル『シェルブールの雨傘』なみの、おっそろしくクリシエ(陳腐)。こんなの、ボリウッドでもやらんくらいの、おもいっきり単純直球勝負。

だが、とにかくバカ当たりしている。日本では、かつての名作児童文学設定てんこもりの『キャンディキャンディ』同様に、ライトノベル系の設定を寄せ集めたみたいな、やたらややこしいのが当たったが、そういうややこしい方が古くさいのかもしれない。ウラになにがあるのか、わけのわからないヒラリーより、見た目どおりのトランプが当選するように、保守回帰の傾向がはっきり出てきている。再会したって、絶対、恋愛より家族だ。不倫もよろめきも無い。

フランス革命以来、やたら自由でなんでもありが進歩的で、そうでないやつは「遅れている」「学習できないバカ」であるかのような風潮が世界を「支配」し、「抑圧」してきたが、そういう理念に振り回されている方が自己疎外された意識だけ高い連中で、バカ騒ぎのパーティは終わり、自分の居場所に帰ろう、というのは、ビートルズの末期あたりからずっと底に響いていた。そして、ようやく頭でっかちな進歩主義の支配と抑圧が壊れようとしているのかもしれない。

                             

ヨーロッパのクリスマス回帰

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 日本では最近はコカコーラすらクリスマスCMをやらない。が、ヨーロッパでは、例年、12月、待降節を過ぎるとテレビはクリスマスCMが腕を競う。日本と同じ30秒というものもないではないが、より長い3分もあるCMもあるので、ドラマ仕立てで、しっかりしたものが出てくる。家で更新するベンツなどの車、プレゼント用の高級ブランドだけでなく、デパートやスーパー、そして携帯電話屋、電気屋など、いろいろなところが自信作を出す。

 米国アマゾンは、高齢の神父のところを友人で、やはり高齢のウラマーイスラム指導者)が訪ね、おたがい相手を思って膝のサポーターをアマゾンから贈る、というのをやっているが、ぎりぎりの線をすりぬけている。ユダヤ教ハヌカーがすっかりクリスマス化してしまったが、イスラムはあいかわらず基本的にはクリスマスを否定している。だから、あくまで冬の友人同士のプレゼント。

 米国マクドナルドは、おもちゃ屋の売れない人形の話。これも、おもちゃ屋はクリスマスだが、むかいのマクドナルドは、いろいろな人種、宗教、世代の人々が楽しげに集っている。とにかく気をつかう。

 一方、ヨーロッパの方は、クリスマスらしさが露骨になってきている。もともと、家族がみんなひさしぶりに顔合わせする、という米国風のクリスマス風景が多いのだが、あまり人種や宗教の配慮は無い。フランケンシュタインiphoneでクリスマスソングを覚えて町に降りていくというスイスを舞台としたCMが出色だが、これだけ移民がいながら、フランケンシュタインまで出てきても移民はまったく出てこない。

 英国や米国にかぎらず、どこの国も内向き、家族主義に回帰してきている。それは同時に移民排除でもある。そもそも、情報社会とともに発展したグローバリズムが、近くの隣人より遠くの友人、だった。しかしいま、逆に、グローバリズムから落ちこぼれた隣人たちが遠くの親族とつながって、グローバルな根無しの連中を排除し始めた。時代は直進しない。ときにふしぎな方向へ折れ曲がっていく。

ASKAの東京オリンピック2020テーマ曲

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 28日月曜の『ミヤネ屋』で井上公造が本人から送られてきたと言って音源を流してしまった。やつに渡す以上、機会があったら流してくれ、というのが、もともと含意されていた、というところだろうが。

 長調単純和音のアウフタクトで4度入り、ファミレー、ファミレファー、コード違いでリフレイン、次にサビで短調に上へ飛んで、またファミレで原調へオチ。ミニマムで、よくできているじゃないか。コードの変えたところ、サビの締め付けるような短調への飛びも、ASKAらしい。べつに正規に依頼を受けて作ったわけでなし、まして再逮捕となると、絶対に本番のオリンピックで使われることはないだろう。

 だが、これは、絶対に、はやる。一発で覚えられるし、耳で音符まで見える。本人が逮捕されて、彼に代わってだれもその著作権を主張したりしないだろうから、これからyoutubeでやりたい放題。もとがモティーフとしての骨格構造がしっかりしているので、シンフォニックでも、マーチでも、アンセムでも、スカでも、なんにでもなる。歌詞がついていないから、かってに歌詞がつけられる。

 リズムに乗せないとメロディができない桑田や宇多田では作れないスタイル。メロディメーカーの小室哲哉も嫉妬しそうだ。もうASKAはとうぶん出てこられないだろうから、実質的には彼の最後の曲になるだろう。しかし、これがはやってしまうと、これを越えるものを作る方が難しい。千住か、葉加瀬か、服部あたりがやるのだろうが、たいへんだ。

ミステリの二重構造と第四者

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 ミステリはかならず二重の構造を持つ。1つは隠すべき物語、そして、2つめはその綻びを繕う物語。デテクティヴが追う殺人事件は後者。しかし、べつに殺人でなくても、失踪でも、なんでもかまわない。とにかく不可解な出来事があり、そのハウダニットとフーダニットが問われる。そして、ほんとうのミステリは、そもそもなぜ不可解な事件が起こったのか、ワイダニットの方にある。

 かんたんに言えば、隠されてきた物語があり、それはずっと隠され続けてきたし、今後も未来永劫に隠され消えていくはずだった。ところが、それが予想外の出来事が起きて、表に出てきそうになる。それで、それを隠すために殺人事件が起こる。いや、逆に、この機会に一気に暴き立てるために、かもしれない。前者は先の悪人が悪事を重ねるもの、後者は先の被害者が復讐するものになる。

 つまり、事件は、事件以前に起こっている。こっちこそがほんとうのミステリ。それは、ときには当事者の間では周知の物語かもしれない。それを第三者が善意で、もしくは知らずに開いて、のっぴきならなくなってしまうことで、トラブルに巻き込まれる。これを解決しようとするデテクティヴ(探偵、刑事)は、第四者ということになる。

 読者ないし観客は、この第四者とともに知見を得ていくことになる。しかし、第四者は、表面的なトラブルを解決しようとすることにおいて、同時に始まりの物語の方を暴き立ててしまうことになる。つまり、第三者以上に問題の核心に踏み込んでしまう。ただ好奇心だけで、というのは、人物描写として弱い。ホームズにしても、ルパンにしても、マーロウにしても、金田一にしても、本人自身に別の始まりの物語が透けて見えているからおもしろい。

原恵一『百日紅』のこと

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 うちの学生、数百人に見せたが、かろうじて半分くらいがどうにか、というところ。後は筋が追えない。まあ、芸術系の大学と言っても、なんの芸術とも縁の無い、芸術というものを商品として消費するだけの連中が、もともと半分以上。世間よりまし、という程度なのだから、まあいい方か。

 見た目で、アニメだ、などというと、とにかく取っつきが悪い。いわゆるアニメを嫌う原恵一。画法はアニメながら、思いっきりアニメの文法を否定している。記号的な喜怒哀楽の表情、表現をすべて無くしている。徹底的に無表情で無口。杉浦日向子の原作からして、記号的な、いわゆるマンガではなかったし、そこが大人に受けた。映画になったら、最後の走るところ以外は、起伏も無い。ただ淡々とエピソードが進む。つまり、クレショフスタイル。観客の側が、その無表情、無動作、無説明の向こう側の流れを追わないとわからない。しかし、残念ながら、映画の観客、とくにアニメだと思って食いついてくるような観客は、そんなに映画リテラシーが高くない。表情とセリフで、昔の村芝居のように大げさに劇中劇として全編を語り直さないと、わからない。

 そんな作りでも、うちの学生の何割かはきちんと全体の筋を追えただけたいしたもの。表面的には、原作のエピソードの5つくらいを使い、それにその他のエピソードのシーンをすこし割り込ませてある。原恵一が全体の流れを意図したかどうかはともかく、これらのエピソードやシーンが選ばれてきたのは、これらそのものが内的連関を持っているからだ。

 全体を貫いている筋は、北斎という画家が盲目の末娘に会おうとしない、という問題だ。そこには深い内面的な葛藤がある。だが、北斎は、いっさい説明などしない。オレ様のバカな観客は、なにを考えているか、わからない、ということで、ここでこの肝心の主軸を切り捨ててしまうから、どうしようもない。こんな内面の深い葛藤を抱えている北斎を側で追うのが娘のお栄。表面的な意味での「主人公」。だが、これはじつは観客のアバターにすぎない。そして、じつはもう一方のメインは、末娘のお猶。それこそ子供だから、いっさい内面を説明したりしない。しかし、このお猶の方も、父、北斎に会おうとはしないのだ。

 見た目の筋としては、北斎とお猶の間をいったりきたりして、お栄が両者を取り持とうとしている。だが、大きな筋としては、むしろお栄の方が、二人の間に入れない「あきめくら」だったことを思い知らされる、という話。お栄は、父、北斎の下で絵を描くが、北斎の模倣ばかりしている。また、お猶のところへ行っては、風景も何も言葉で説明してやる。お栄は、宮崎の『千と千尋』の顔無しと同様、原恵一が嫌うアニオタそのもの。けっして芸術家の世界には入れない。

 お栄はやたら目がでかい。瞬きもしない。見れば見えると思っている。お栄は降りてくる龍を必死にとらえようとするが、北斎はそんなことをするまでもなく、腹に龍を飼っている。お猶も、心の中に地獄の闇がある。お栄は、お猶に触れ、それを地獄絵にしてしまうが、投げ出しっぱなしで、北斎が手を加えないとならない。重要なのは、手のエピソードだ。遊郭に閉じ込められている花魁の首が伸びる、というのを見せてもらおうと、北斎も、じつは自分も「めくら」の手が伸びる、と、語る。たんなる思いつきだ、と北斎は言うが、お猶の病状が悪化して、北斎がとうとうお直を見舞ったとき、手を北斎の顔に伸ばすその手は、まさにその「めくら」の手。北斎は、会わなくても、お猶の闇の世界を見ていた。そして、その闇の世界を見ていたからこそ、会うのを恐れていた。生まれながらの病気は治らない。救いの無い地獄。仏が人々を踏みつぶして行く。だからこそ、北斎は自分がそこに降りて、なんとかお猶を救おうとする。

 「あきめくら」のお栄は、お猶を哀れむ。だが、お猶が言う蚊帳の上のカマキリを見て、お栄は、ようやく自分の方が見えていなかったことに気づく。北斎やお猶が見ている、目で見ない世界。心の内側をのぞき込むような視覚。お猶が死んで、お栄は駆け出すが、北斎は座っている。腹にお猶が生きているから。百日紅の花ひとつ、畳の上にあって、北斎はそれに話しかける。自分で来れたじゃないか。さんざん、自分の絵を描け、と言われていたお栄も、自分の中にお猶が見つかる。そして、それを絵にする。

 体験しなければわからない、って、男娼を買いに行ったお栄はすごいと思いました、みたいな、思いっきり勘違いした感想も続出する。見ればわかる、というのが、間違い。男娼を買ったところで、お栄の絵はやはり、心底から女好きの、絵の下手な善治郎にすらかなわない。目で見るのではない、広大な世界。それはときに闇の地獄。死んだお猶を腹に生かしている以上、北斎は死ぬわけにはいかない。しかし、それもまた仏が踏みつぶして行く。

 百日紅。夏の間、咲きほこる。しかし、夏が終われば夢まぼろし。原作は、杉浦日向子がまだお栄と同じ年代だったころの作品。自分がまだ北斎の見ている世界を見えないことを知っていたのだろう。百日紅は、あの江戸の幕末、そしてお猶。一方、原はむしろ北斎の年代だ。見てしまった世界を見えない連中に伝えたいと思ったのか。残念ながら、あまりうまくは行かなかったようだ。

弦楽器はなんでもあり

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 ヴァイオリンなんて、完成された楽器、だと思っていた。なにしろモノが高いし、たとえ新作でも骨董品のごとく大切に、というのが相場だった。ところが、この十年来、中国製で1万円台のが大量に出現。これに追随して日本製、米国製でも、わけのわからないものがいろいろ出てきた。

 もともと弦楽器は、たしかに脆い。ピアノのように鋼鉄のフレームならともかく、たいていが木製だ。そこにガットで何本も弦を張るのだから、その張力で限界ぎりぎり。弾き終わったら、そのつど、緩めておいてやらないと、ネックが曲がってしまう。ところが、エレキでソリッドが出てきたあたりから、やたら強いのが出てきた。ネックにトラスロッド(鋼鉄棒)なんていうのが入っている。それで、ヴァイオリンでも、エレキソリッドでいいじゃん、なんていうのも。さらに、そんなに強いんだったら、下G腺の下に下C線を張って、ビオラ兼用の5弦にしよう、なんていうのも。市販のモノもあれば、かってに改造しているのも。もとが安いから、けっこう大胆なことをする。

 ウクレレやギターの境界も、わけがわからなくなってきた。ウクレレは、GCEAで、アップでもダウンでもコード弾きが同じように響くのが特徴だが、これでメロディを弾くには、音域がソプラノリコーダ並みに狭い。そこで、Gを下Gにしてしまう人が続出。これでも、コードの抑え方は同じだからね。おまけに、およそ1.5倍にサイズアップして、それでもソプラノと同じ下GCEAにキンキンにチューンするテナーウクレレなんていうのが出てきて、でかい音を出す。逆に、ギターでも、ヤマハまでが「ギタレレ」なんていう、ギターを5フレットに詰めた小さいものが売り出した。

 ただヴァイオリンとウクレレとギターとで決定的な違いになっているのが、弦の音程間隔。ヴァイオリンは、たとえ5弦でも、下C下GDA上E。ウクレレは、下GCEA。ギターは、下下E下下A下D下G下BE(譜面はオクターブ上に書く慣習)。つまり、ヴァイオリンは5度、ウクレレは4度、ギターも4度(GBが3度)。これは、おそらくヴァイオリンがソロで音域優先なのに対し、ウクレレやギターがコード弾きの都合で、5度だと、指4本でコードを処理できない、という事情によるだろう。

 とはいえ、多重録音の昨今、ウクレレを5度で張って、上をヴァイオリンと同じ上Eに張ってソロ用にすることも、理屈では可能だ。ただし、ヴァイオリンの場合も、上Eは、巻き無しの鋼鉄線を使っている。ウクレレだと、上Eの太さは、同じテンションで張る場合、計算上は、第2弦(細い方から数える)のEの半分の重さ、つまりルート2で割った直径のものということになる。フロロカーボンなら、この細さのものでも、そうそう切れることはないが、弦が軽くなればエネルギー量も減るわけで、音量が確保できるかどうか。ヴァイオリンなら、弓の圧と早さで音量を確保できるが、ウクレレは弾く強さを極端に強くしなければならず、そうなると、こんどは音程が怪しくなって、それも高い音でのズレは大きくなり、かなり難しいかも。

 逆に、ヴァイオリンのコマを取ってしまい、4度チューンにしてコード弾きする「ヴァイオレレ」もある。ウクレレにガット弦で弓で弾く「ウケリン」も。最近は、ギターをそのまま小さくしたような「ウスレレ」も人気だ。そこらの木製の空き箱にネックさえつければ、なんでも楽器になる。それも、フロロカーボンの釣り糸が驚くほど品質が良くなっているので、でかいのでも、ちいさいのでも、弦の太さも、長さも、やりたい放題。

 ハープやリュートも、もとをたどれば、けっこうでたらめな規格だった。それが、材質や弦の都合で現在のものに淘汰されていただけ。材質や弦が自由になれば、可能性は広がる。ゲテリン、ゲテレレなどバカにする人、自嘲する人もいるが、昨今、フルートは金属製が主流だし、弦もガットなんか使っている人の方が珍しい。ギターも、クラシックよりソリッドエレキの方がはるかに数が多い。音の可能性は、未来に開かれている。

サンダーバードS号、であるか。。。

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 この番組、いったいいつやるんんだか、わかんないよ。不定期放送って、あえて見せたくないんだか。制作が間に合っていないなら、月2回、第一、第三土曜、とか、決められないものかね。そもそも、教育ではなく総合で流す意味があるんだろうか。それも、この夕方の時間、いつも、すもお、だろ。

 始まるまではすごく期待した。映画版よりオリジナルメカのレスペクトも感じられたし。だけど、S号、ってなんだよ。河森正治だかなんだか知らないけれど、2号をガリガリに細くしてヴァルキリーで割ったみたいな、安直なデザインって、見たら興ざめ。60年代っぽさが無いから、全体から浮いているし。サンダーバードメカの精神を理解していない。いっそゲッターロボ3号やエルメスみたいな、空力学的にどう見てもおかしい空飛ぶハンドロボットとか、アナクロなのがサンダーバードなのに。

 話はいよいよね。もともとサンダーバードは、救助隊のくせに、当時の国際スパイものを取り込もうとして、わけがわからなくなった、という経緯がある。その意味では、映画版の方が、そのあたりの裏の面倒くささを理解していたように思う。しかし、今回のシリーズ、そこが矮小化されて、『スターウォーズ』の親子喧嘩と並ぶジェフ家とフット家の争いに。これですでに第3シーズンまでひっぱることが決まっているようだが、アニメと同じで犬などからの世界的出資が決まっている、というだけで、作りたい話があるわけじゃなさそう。『猿の惑星』の背景の黒人問題と同様、当時のブリテンのインド人問題、没落する大英帝国の未来のあり方、などなど、その根底にある時代の問題まで目を向けないと、浅薄なものになる。 『ヤマト』のリメイクもそうだったが、ファンダムというのは、結局、表面しか見ていないから、時代がずれても、ファンでいられるのだろう。

 なにを考えているのか、これと平行して、『サンダーバード』オリジナルの続編の企画も進んでいるとか。キャラやメカだけでなく、作り方そのものも当時のまま。『スマイル』の事情と似ている。研究者が深みにはまって、完璧に再現することそのものが目的になっている。すごいでしょ、って言われると、そうなの? と思う。『シン・ゴジラ』は、ゴジラである、ということにおいて、オリジナルの意味、56年当時の日本の危機感を徹底的に再現した。見た目の再現なんかはついでの話だ。

 うちの両親も、成城の東宝スタジオで、あの最初の『ゴジラ』の製作の手伝いをした。あれは怪獣映画なんかではなかった。シンボリックな核兵器放射能の危機感。暴走する科学技術の恐怖。繰り返し、スタジオのそこかしこですぐ議論になる、作品を作る意義を聞いた。あのころは、東宝でも、円谷でも、若手の芸術家たちが真剣に未来を考え、映画やテレビという大衆文化の中で、真剣に考えたメッセージを伝えることに腐心していた。その後の、ちゃらいだけの怪獣映画なんかといっしょにされてはたまるまい。

 『サンダーバード』も、最初の月着陸を果たした米人ジェフ・トレーシー大佐が土木事業で巨万の富を築いた後に、自分の使命として国際救助隊を作った。その姿は、大英帝国そのものと重なる。すでに英国は宇宙開発の力を失い、その一方で、左翼が台頭し、資本主義の金融拠点(当時のWTCのようなもの)として、中ソ共産主義のミサイル攻撃の脅威にさらされていた。財産と技術はありながら、すでに終わった人間、もはや最先端ではありえない人間がなにをすべきか、それがサンダーバードだった。

 新テレビシリーズにジェフがいないのは、まさにシンボリックだ。メカだけがあるが、この兄弟、なんのために、なぜこんな南海の孤島にいるのか、だれも考えていない。ゲデヒトニスみたいなのがお友達で、全員がドロッセルみたいに走り回っているが、やるっきゃない、とか、どこぞの政治家みたいな硬直した消化主義で、その時々の仕事をやっているだけ。まるでアルバイト店員。なぜサンダーバードなのか、こいつらにはわかるまい。

ロバート・マッキー氏の新著『ディアローグ』

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 手づから送っていただいた。恐縮至極。さっそく読み込んでいる。オースティンら日常言語学派のスピーチアクトの概念を拡張し、映画だけでなく、小説や演劇の対話の深層を分析している。もちろん、後期ヴィットゲンシュタインに言語ゲームというコミュニケーションの考え方はあるのだが、あれは静的で固定なルールを背景にしている。それに対して、マッキーは、ビートという概念で、アクションとリアクションのコンフリクト、むしろルールの主導権争いこそが、対話の本質だ、と考えている。

 例に挙げられているのも、『ジュリアス・シーザー』や『ギャッツビー』から『ザ・ソプラノズ』まで。あの年で、近年のものもフォローしているのは、すごいと思う。たしかに、昨今の米国のテレビのミニシリーズは、ピンポン曲芸のように饒舌で、その対話の中で局面がどんどん変わっていく。かつては暴力やエロ、麻薬のシーンが問題になったが、いまは、その会話の過激なやりとりのせいで、批判を浴びることもある。だが、その速射砲の応酬のような攻撃的な対話がウリなのだから、御意見上等というところか。

 とはいえ、個人的には、もう食傷気味。どれでも、同じようなノリ。やたら喋り捲るが、シーズンが終わっても、結局、なんにも話が進んでいない。思わせぶりなセリフの伏線の謎だらけで、次回へ、次シーズンへ引っ張るだけ引っ張るのだが、次回、次シーズンを見ても、すこしも変わらない。『バーン・ノーティス』なんか、なんとか第7シーズンで終わったが、ほんとにおもしろかったのは、第1シーズンだけかも。そのあとは、主要メンバーの親戚家族の紹介が延々。そんなの見る方も見る方だが、フィオナの雨蘭咲木子の吹き替えは悪くなかった。

 なんにしても、アカデミックな分析哲学がいまだに半世紀以上も前のスピーチアクト関連の原著の概念をこねくり回している間に、脚本を書く、という実践実用の必要から、現場で、どんどんより深い研究と工夫が行われている、という現実はなんとも。日常言語の研究なんだから、それは哲学者の本の中ではなく、我々の日常の中にある。研究対象は、図書館ではなく、目の前にある。

ラジオ体操という秘密結社

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 夏休み、と言えば、ラジオ体操。きっちり6時半。近所の公園でやっている。うちの子たちも、バタバタと毎日。老人会と子供会、ということだが、まあ、出てくるのは決まった面々。それでも、生活習慣となると、その前に目が覚める。

 最近の体育の先生に言わせれば、ああいう、むりやり弾みをつけてストレッチするなんて論外、ということなのだが、1928年からやっているそうだ。もっとも現在のものは、第一も、第二にも、3代目で、戦後にできた曲。作曲は、服部正団伊玖磨。慣れと言うのもあるのだろうが、よくできているなぁ、と思う。

 これらと並んでインパクトがあるのが、ラジオ体操の歌。「あたーらしい朝がきたっ、きぼーぉの朝だっ」というやつ。作曲は、これもなんと藤山一郎。歌詞は藤浦洸。淡谷のリ子、笠置シヅ子美空ひばりなんかで有名。昔は、みんな本気で、国民のためになにか、と思っていたんだろうねぇ。よくフォントのサンプルでも、この冒頭の一節が使われているが、この歌詞は、ラジオ体操を知らないと、知らないんじゃないだろうか。

 ラジオ体操に参加すると、子供たちは、自治会からちょっとしたお菓子がもらえたりする日もある。そうでなくても、田舎から日持ちのしない果物をいっぱい送ってきてくれた、とか、で、分けてくれたり。いまさら隣組だなんだというのははやらないのだろうが、いつ災害などで助け合わなければならなくなるかもわからない。強制ではないにしても、朝、仕事の前に、御近所の人が顔を出す機会というのは、とても大切なのだろうと思う。

DFP超極太楷書体は皇室御用達

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 ダイナフォントは、個人的には、わりに好きなセット。クセがなく、原稿やプレゼンでもよく使っている。だが、ダイナフォント、安いせいか、自称「プロ」のデザイナーには、あまり評判が良くない。やつら、やたら妙な、高価でアクの強いフォントを礼賛したがる。それがツウだと思っている。しかし、中身の無い、見せかけばかりのデザインならともかく、中身で勝負の物書きなら、フォントなんか、できるかぎり無色透明がいい。言葉を伝えようとしているのに、文字がでしゃばったのでは、ゲシュタルトが反転して、かえって読みにくい。ちかごろは、そんな頭の悪いデザイナーがいっぱい。

 天皇陛下のお言葉。なんと字幕は、DFP超極太楷書体だ。よくわかっていらっしゃる。下世話なデザイナーなんぞが出る幕ではない。できるかぎり質素平易を好まれる陛下のお心にも見合っている。もちろん、陛下が御自身でフォントまで指定するわけがなく、わざわざこのダイナフォントを選んだデザイナーはいるにはいる。だが、よく分を心得え、その務めを見事に果たした。浮ついたバカなフォントを使わなくてよかった。腹が座っている、と思う。

 この特殊な、というより、一般的なわりにあまりプロのデザイナーは使わないフォントがテレビに出てきたので、すぐ気づいた同業者はかなり多かったようだ。テレビでは視覚デザイン研究所や、フォントワークス字游工房あたりをよく見かける。ライセンスの関係で、テレビ局はあらかじめこれらを一括リースで借り上げているので、わざわざ印刷用のダイナフォントがテレビで使われることは、まず無い。それをあえての、このフォント。

 だいたいこの十年来、テレビの字幕は、うざい。おもしろくもない発言でも、画面半分もの、でかい字幕で、ダメ押し。大きくしたって、おもしろくないものが、おもしろくなるわけじゃないのに。それも、アクの強いフォントばかりが画面上で目立って、スタジオも、タレントも、どんどん影が薄くなる。

 本来、デザインは、黒子だ。画面をふさいではいけない。できるかぎり、無色透明の光となって、言葉や才能を輝かせてこその演出。テレビでやたら字幕が目立つのは、プロデューサーとか、ディレクターとか、内輪ウケしかしない連中が画面に出てきて、幅を利かせ始めた時代と呼応している。テレビが人心を失い、嫌なら見るな、ああ、じゃあ見ないよ、と売り言葉に買い言葉。これと同時に、生意気で目立ちたがりのフォントがテレビの画面を埋め尽くすようになった。

 はっきり言ってしまえば、デザインに、こんなに多種大量のフォントなんかいらないんだよ。つまるところ、平文の明朝、見出しのゴシック、引用の楷書、文字そのものを見せる教科書体、そして、口語に相当するポップ体くらいがあれば十分。明朝だかゴシックだかわからないフォント、楷書と明朝の中間みたいなフォントは、態として、発言者の責任を不明確にするだけ。日本語の文法がわかっていない頭の悪いやつらが、見てくれの形だけのデザインをやるから、こういうバカなものが多種大量に粗製乱造される。日本語の文法に沿った、使う場、読む覚悟を踏まえたフォントじゃない。

 その意味でも、陛下のお言葉を見えるようにする字幕に、超極太楷書体を使ったデザイナーは、ほんとうによくわかっていると思う。これまで、妙ちくりんなフォントを乱用していた連中も、すこしは頭を冷やした方がいい。なんにしても、今後、ダイナフォントは、皇室御用達。わかってない連中に、わけのわからんことは言わせないぞ。

 

映画版『鉄塔武蔵野線』を読む

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 今年の演習は、けっこうツワモノの学生がいるので、安っぽい話はできない。ここ数回は、ドラマ、それもミニマムなものからドラマの本質を理解する、なんていうことをやっている。アクションだの、爆破だの、無し。トリックのドンデンも無し。登場人物も少ないほどいい。2人のロードムービーがミニマムか、というと、日本には、1人、それも子供という、とんでもないミニマムなドラマがある。それが『鉄塔武蔵野線』だ。夏と言えば、これ。いったい何の話なのか。

 ただ鉄塔を1号まで追っていこう、というだけ。表面的には、おそろしくなにも起こらない。原作の小説と映画では、かなり設定や筋書が違う。個人的には、原作(これも、最初の単行本版と、映画の後に修正された文庫版と違う)より映画版の方がソフィスティケイトされていると思う。鉄塔を追うモティーフは、とてもシンボリックだ。映画では、これに父親の失墜というバックグラウンドを与えている。

 主人公、美晴の両親は夏の終わりともに別居する。武蔵野線、あのあたりは日立や東芝の大工場がある。前に千葉にいた、というから、東芝だろう。以前、茂原に東芝の工場があった。父親は、そこに努めている理系オタク。磁力発電の実験装置だの、天体望遠鏡で見る土星の環だのにはまっている。しかし、美晴は、答えない。母と長崎に行くことが決まっている。図書館で借りた『天草四郎』なんか読んでいる。

 友達は家族でどこかへ行ってしまった。残っているのは、2つ年下の、近所の暁。暁の父親も長いこと不在だ。父親が出て行ったのか、暁の方が二号の子なのか。この二人で自転車に乗り、1号鉄塔をめざす。一つ一つの真下に、潰したビール瓶のキャップを埋め込む。両親のことは、子供の自分ではどうにもできない。でも、鉄塔から「パワー」を得ることができれば、家族が元のように戻るのではないか。二人は、いろいろあっても、どんどん進む。しかし、日が暮れてくる。暁は帰ろう、また来ればいい、と言う。だが、また、は、無い。数日後には、彼はここにいないからだ。

 夜になって、暁との別れがくる。『銀河鉄道の夜』を思い出させるシーンだ。もう二度と会えない。それでも、美晴は野宿して先に進む。が、4号鉄塔でつかまって連れ帰され、長崎へ。ところが、次の夏、父親がひとりで死んだ。缶コーヒーばかり飲んでいて死んだ。美晴は葬儀に府中へ。 通夜で、父が言っていた「パワー」の話を聞く。あんな父とは違う、そう思っていた美晴は、父と同じだったこと、相似形だったことに気づく。この「停電」している家、家族に、メダルで「パワー」を取り戻そうとした一年前の夏のことを思い出す。彼は葬儀にも出ず、また1号鉄塔をめざす。

 暁の家は、雑草が生い茂り、もうだれも住んでいない。鉄塔と違って、人はばらばらになってしまった。美晴は、一人の自分の未来を求めて進む。そして、むしろ過去、父の影を追う。鉄塔に耳をつければ、父の声が聞こえる。ようやく1号のところにたどり着いたが、それは変電所の中で、立ち入り禁止。暑い夏、ラーメン屋。父が連れて行ってくれたラーメン屋に似ている。そこに草刈りの二人が食事にやってくる。変電所で働いているらしい。美晴は、彼らの軽トラの籠の中に隠れる。それでおしまい。

 繰り返されるプール、風呂、そして、籠。母胎回帰のイメージ。男型と女型の鉄塔は、しっかりとつながっている。通夜の停電。コンセントを見つめる美晴。なんのためにメダルを埋めたのか。途中に、死んだクワガタを紅茶の缶に入れ、電線の電気で生き返らせよう、というエピソードがある。美晴は、両親のことには触れない。だが、自分の家には「パワー」が足らない、それさえ戻ってくれば、両親がともに暮らす、自分の幸せな子供時代をもうすこし続けられる、と思ったのだろうか。父の死で1号鉄塔をめざす理由は、はっきりしている。「パワー」さえあったなら、父だってきっと生き返るはず。幸せな母胎のような子供時代が続けられるはず。

父親役は、菅原大吉。いかにもダメそうな、電圧の低い父親をうまく演じている。父親の喪失、家族の瓦解。表面上は、なにも起こらない。なにもあらだてない。別居予定の母親と父親がいっしょに黙ってスイカを食べる。父親の残した、まだ実の多いスイカの皮をクワガタにやる。しかし、そのクワガタは死ぬのだ。もっと強い「電気」さえあれば、生き返らせられるのに。

目に見えるものしか見えない人には、なにも見えまい。小津の映画に似て、足元では薄氷がぴきぴきと音と立ててヒビを拡げていっている。その薄氷の上を美晴は自転車で走る。氷は割れ、なにもかもが落ちて崩れていく。『スタンドバイミー』のような回顧譚でもないのにノスタルジックなのは、終わっていく夏休み、取り戻せない時間が、そこに凝縮しているからだろう。

ポケモンGOとナムコ

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 CNNなどだと、米国でえらい騒ぎになっているらしい。韓国でも、すでにできる場所があるとか。明日にも日本で発売?になるだろう。じつは昔、できたばかりのゲーム業界にも、いっちょかみしていた。とはいえ、学生のころ。あれからなんと、ちょうど三〇年。とても感慨深い。

 今でこそ、たまに学生経営者なんていうのが話題になるが、あのバブル直前のころから、気の利いた学生たちは、早くも多くの企業とつながりを持っていた。学園祭で企業スポンサーをつけてサンプルを配って宣伝する、なんていうのは、どこのサークルでも当たり前。個人でも、ホイチョイみたいなのが、雑誌などとタイアップして、若者マーケティングに協力していた。成城や成蹊、青山あたりの「下から上がり」(幼小中高からのエスカレーター組)は、ろくに受験勉強はしなかったが、親の資金力と共学の強みで、こういう話にはケタ外れに詳しかったのだ。(有名大学でも受験上京組は論外、男子校の慶応早稲田上がりもダメ。)

 東大とはいえ、成城学園出身だったので、そういう学生ビジネスの雰囲気にどっぷり。実際、同級生の親がマーケティングだの商品開発だのの部長クラスがゴロゴロいたし、電博やマスコミ、デパートやNTTなどなども。ちょうど教養部のころ、アーケードゲームが全盛の時代で、大学の生協にNECのパソコンのサンプルが並び始めたころ。2階の書籍部でパソコン雑誌を買って、1階で床にヒザをついて出たばかりのデータを一文字一文字、打ち込み、ときにはいろいろデータを改造し、カセットテープで保存。大学はまだ大型計算機センターに秒単位で接続するバッチジョブ。パソコンなんて、あんなもの、そうそう使いこなそうとする学生も多くはなく、それどころか、生協の兄ちゃんにあれこれ教えてもらっていた。横に商談用の小さなテーブルまであって、そこはパソコンマニアのちょっとしたサロン。

 98が出てくると、それは、それまでのパソコンとは段違いの性能があることがわかった。カセットテープではなく、もはや5インチフロッピーの時代だ。複雑な部分ルーチンがあちこちにあって、データも長大になり、店先に座り込んで打ち込めるようなものではなくなってきた。手元にほしい。が、生協価格でも、本体だけで百万円以上。モニタで三十万。プリンタが三十万。その他のケーブルなども、とんでもない価格。もとより父親が国立大学教授とはいえ、遠距離の二重生活。運悪く、このころ母親が長期入院、弟は美大。自分も大学院で研究者志望となると、家計にまったく余裕は無い。それどころか、火の車。

 それで、当時、アーケードゲームで、やたら上り調子だったナムコの社長、中村雅哉さんに相談した。「遊びを科学する」というのが、コーポレイトコンセプト。ありがたいことに、秘書室の甲斐さんが、うまく取り次いでくれた。もともとはデパートの屋上の回転木馬などの遊具を作っていた会社だ。学生紛争で新宿が荒れる以前のデパートは、レストランを含め、子供の夢の国だった。いろいろな屋上の遊具についてもよく覚えていた。生意気にも、当のメーカーの社長に、喫茶店に蔓延するアーケードゲームを批判した。ところが、社長も、あのアーケードゲームが嫌いだったのだ。パソコン代くらいだったら、出してやるよ、そのかわり、人間学として遊びの原点を考え、新しいアイディアを創造しろ。

 ホイジンガだの、カイヨワだの、けっこう専門的なところを読み込んだ。社長も私も一番の問題に感じていたのは、当時のアーケードゲームの「勝利」が、すべて敵の殲滅だったことだ。そんなのが、遊びか? 屋上の遊具に、潜水艦に魚雷を当てるゲームくらいはあったが、木馬でも、電車でも、勝ちも負けも無い。ただ遊んでいることそのものが楽しい。この遊び本来の楽しさを、アーケードゲームは失ってしまっていないか。それで、あえてコントローラーの無い「ハングオン」(バイクに乗って自分が全身で傾けないと曲がらない)みたいなのを、当時のナムコは作った。

 その後、あいかわらず、「ストリートファイター」のように、敵を倒すゲームが続いたが、その一方で、他社を含め、DDRダンスダンスレボリューション)や、「アイカツ」(御着替えファッションセンスゲーム)、「ポケモン」など、敵を倒すだけではない、友達とつながって一緒に遊べる工夫がさまざまに出てきた。

 で、話は戻って、完全仮想空間ではなく、現実の上にレイヤーとしてヴァーチャルリアリティを載せる、というのが、3Dとカメラの空間理解で十年くらい前に可能になった。それとGPSを組み合わせるゲームというのは、昨年の夏に「イングレス」として、うちうちではひそかにはやった。しかし、やはり陣取り合戦の勝ち負けゲーム。敵を倒す、という根本のところが腐ったまま。遊びの哲学無しに理系にゲームを作らせると、こういう人間性の疑われるようなものしか考えられないらしい。

 そして、ようやくポケモンGOだ。ポケモンだから、その対戦というベースは残ってしまっているが、それ以上に、ゲームを持って外に出て、新しいともだちとつながることができる、という面白さが世界にウケているのだと思う。プロゲーマーなどならともかく、一般の人が遊ぶもの。まだ新機軸は粗削りで、いろいろトラブルも出てくるだろうが、あの楽しかったデパートの屋上で過ごす時間、知らないともだちと公園ではじめて出会って話しが盛り上がる喜び、そういったものが、そこから生まれれば、と願っている。

いや、それだけじゃない。中村社長、甲斐さん、そして、世話になり、面倒をかけ、いろいろ教えてくださった当時のナムコのみなさん。あの時の恩は、いまも終わっていない。あのとき、チャンスをいただけたからこそ、それが今の研究者としての道につながった。その後も、いろいろ勉強し、資料を集め、遊び、ということを真剣に考えてきた。三十年がかり、それどころか、自分の考えをまとめるには、もうすこしかかりそうだが、いつかあのときの宿題を、きちんとした形で研究として仕上げたい。

絶対音感よりも絶対調性感

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 世間で、絶対音感が、とか言うけれど、電子楽器世代で子供の時からずっと完全固定の音程を聞きなれてきた者なら、440Hzはもちろん、その他の音程も耳でわかるに決まっている。自分の楽器のチューニングに音叉なんかいらない。

 ところが、日本のピアノは、442Hz。電子楽器に慣れていると、ピアノは、キンキン声の、昔、大嫌いだった音楽の女の先生を思い出させる。おまけに、こんなピアノのせいで、オケではヴァイオリンなども442Hzに合わせないといけない。しかし、これがかえってできない。この2Hzが耳でわからない。いや、微妙にピッチが高い、ということはよくわかるのだが、2hz、つまり、1~3Hzの程度がわからない。(もとよりピアノでチューンするのは、ものすごくやりにくいんだよ。打音とペダルによる残響音でピッチが違うし、ワウっているのを調整している間に、減衰してしまって、ワウっているのかどうかも、わからなくなる。オーボエやポータトーンの方がずっとまし。)

 しかし、この442Hzなどという半端なピッチは、日本のクラシック業界の方言みたいなもので、日本以外ではあまり使っていない。英国その他はオーケストラでも440Hz。ところが、戦後のドイツ・オーストリアだけは、446Hzなどと、かってにバカみたいに高いピッチを使いたがる。これくらいになると、へたに絶対音感があると、耳障りで仕方ない。70年代、80年代、世間では、これまたバカみたいにカラヤンをほめそやしていたが、当時から私は大嫌い、というより、プロのくせに、音程、くるってるじゃん、耳、おかしんじゃね、と思っていた。ビートルズも苦手。ジョンレノンがどうこうというけれど、もとより440じゃないじゃん。もっとずっと高いよ。

 年来の研究、物理的に音程の変わらない音叉やパイプオルガンなどから、1939年のロンドン会議でA=440Hzと決められる以前のピッチについていろいろ調べられているが、むしろバラバラで、それも同じ町でも時と場合(教会か室内楽か)によって、ぜんぜん違うピッチが用いられていた。とはいえ、概して440より高かったことは一度も無い。へたをすると今より全音も低かった。

 知ってのとおり、オクターブで数字は半分、または倍になる。その間を12音階の平均律で割っている。これだと、移調が簡単にできる、ということなのだが、倍音の多い楽器、ピアノみたいな長弦楽器だと、違和感がある。ペダルをかけたとき、上の方でへんなモアレみたいなワウりが出ているのがわかる。倍音が一致せず、かといってうまくすれ違いもせず、妙に一致するところがあって、ウァンウァンと、そこだけコーラスをかけたみたいになる。それも、音によって、ワウる倍音の高さがまったく異なって飛ぶので、ひょっこひょっこ。弦楽器がフレットレスなのは、このあたりをうまく耳と指先で調整して抑え込んでいるのだと思う。

 クラシックというと、日本ではやたらピアノのイメージが強いが、どう考えても、あれは音響について半可知の時代の半端な過渡的楽器だと思う。一言で言って、楽器自体の音が汚い。電子楽器みたいにがっちり数字で割り切って倍音調整までやってしまうか、弦楽器や管楽器のように人間の微細な感覚で倍音調整をやるか、どっちかでないと、あの濁りが、かえってわからなくなって、調律師だのみになってしまう。しかし、それは自分自身の耳では音を聞いていないのも同然。

 基音のみの楽理を学ぶならともかく、ほんとうに耳を鍛えて演奏を磨くという意味でいうのなら、ピアノから始めるより、電子楽器か、弦楽器や管楽器から始めた方がいいんじゃないだろうか。倍音まで聞く耳からすれば、音楽は、ピッチや平均律で簡単に移調なんかできるものではなく、それが作られたときの、作曲家本来の調性が無意識に入りこんでいて、一般に440よりずっと低いところで、もっとも豊かに倍音までうまく響くようにできている。しかし、作られたときの音程がバラバラだった以上、それは、杓子定規の数字では決められない。むしろ音楽そのもの響きの中にのみ、その曲本来の、あるべき音程を解く鍵がある。それを自分の耳で聞きだして、そこにチューンできてこそ、演奏家なんじゃないだろうか。

江戸川乱歩の『陰獣』

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 まあ、日本の大学の国文学じゃ扱わないだろうな。ところが、ヨーロッパでは、けっこう評価が高い作品だ。わざわざ翻案して映画化までしている。もちろん日本でも、なんども映像化されている。通俗的で伝統的な日本の耽美猟奇的エログロの体裁を採りながらも、やたら高度な心理実験的な文学形式の奥行きがあり、乱歩の代表作の一つとされるだけのことはある。

 表面的には、本格小説家の主人公と、影の変格小説家の戦い。小山田静子のかつての初恋相手が、正体不明の変格小説家、大江春泥で、彼の小説を地で行くように、ストーカーのごとく彼女につきまとっている。そのことを相談された本格小説家の「私」が春泥を追う、というもの。そして、オチとしては、じつは静子こそが春泥本人で、自作自演だった、というトリック。

 しかし、これだけなら、なんてことはない。オチをわかったうえで読み直すなら、まったく別の面が見えてくる。この静子、マゾエロ狂いの天才女流小説家。旦那の海外出張中の慰みに、匿名で妄想満載のエログロ変格小説を書いたら、これが大当たり。ところが、「私」がそれをけなすものだから、逆に「私」を耽美猟奇のエログロ世界へ引きずり込み、その愉悦快楽を教え知らしめてやろうと、罠を仕掛けてきた、というのが、本当の筋。さらに言えば、旦那にしても、女中や運転手、愛人のヘレン、春泥を演じていた役者の市川にしても、春泥を地でいくようなエログロの一面を隠し持っており、それらが相まって、うまく静子の正体を守っている。

 なぜヨーロッパ受けするか、というと、これらがすべて江戸川乱歩の内面の葛藤だから。本格純文学小説家たらんとする自我と、変格エログロ娯楽売文屋へと誘惑するアニマの静子。自我はアニマに侵略され、立志は食い荒らされて、静子とともに自堕落に耽美猟奇のエログロ世界へ取り込まれていってしまう。それを最後の一線で留まって、あくまで本格推理として、静子のトリックを論理的に見破る、という形で終わらせる。1928年、当時、乱歩34歳。

 いちおうミステリとして、中盤になってようやく旦那が殺されるのだが、しかし、むしろこの旦那もまた春泥の一部でもあり、逆にここから春泥の隠れみのにほころびが生じる。そもそも、殺された、と言ったって、自分で春泥を名乗って自分の妻の静子を脅迫し、窓の外にへばりついて覗きの春泥を演じていたら、落ちて死んで川に流された、というもので、静子が突き落としたのかどうかもよくわからない。

 本当の殺しは、じつは、ほとんど語られない平田一郎殺し。静子は、春泥の正体は、自分の初恋相手、平田一郎だ、と言っていた。しかし、静子こそが変格小説家の春泥だったわけで、平田はどこへ行った、ということになる。最後のところで、「私」は、静子が平田を殺した、と暴く。ちなみに、江戸川乱歩、本名は、平井太郎。本当の自分はずいぶん前に静子に殺されてしまったのだ、と、乱歩自身が語っているに等しい。結果、この後、乱歩は、耽美猟奇的エログロ変格小説家の道を暴走していく。